2024.4.28(日) 礼拝説教

 

ただ前に向かって

出エジプト記141518

 

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 私たちが神に思いを向ける時には、祈りが出てきます。そして、その祈りは必ず聞かれるものです。神の御心に適うように、もっともふさわしく聞かれるのです。

 

本日の聖書の中にモーセという人が出てまいります。モーセは、イスラエルの民をエジプトから導き出すために神に選ばれた人でした。モーセは、神が民を救ってくださるように祈りました。しかし、主なる神は14:15においてモーセに言われたのです。「なぜ、私に向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。」ここに留まるのではなく、進みなさい、とおっしゃるのです。

 

私たちの場合も同じです。私たちは神の導きを求め、神から力を与えられます。その時には、それ以上、考えすぎる必要はありません。私たちに示された働きに取り掛かることが求められるのです。

 

私たちが生き生きとした信仰を与えられるならば、困難だけを見つめることはしません。神が必ず約束を果たしてくださることを信じて前進するのです。神が私たちの声を聞いてくださったことを確信するからです。

 

そこで、今回は、前進と言うことを中心にして、第一に、恐れの中にいるイスラエルの民について、第二に、民に与えられた命令について、第三に、約束の地に向かう民について、第四に、困難の中にある民について、第五に、神の使命を帯びた民について、考えましょう。

 

本Ⅰ(恐れの中にいる民)

 葦の海を前にして、イスラエルの人たちは恐れの中で互いにささやいていたと思います。なぜなら、イスラエルの民の背後には、追い迫るエジプトの軍隊がいたからです。エジプト人は、我々を滅ぼすに違いない、と考えたでしょう。彼らは、恐れの中で神とモーセに向かって叫んだのです。

 

 主なる神は、モーセに対してどのように語られたのでしょうか。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。」主なる神の言葉から、モーセもまた、神に向かって叫んだことが分かります。前は海です。後ろからはエジプトの軍隊が押し迫っています。このような中で神はどのような救いを与えてくださるのだろうか。そのような思いを持ったのだ、と思います。しかし、主なる神は言われます。「イスラエルの人々に命じて出発させなさい。」

 

 このことは、自分の罪のために悩む私たちに対して当てはめることができます。私たちが自分の良心にとがめられる時、わたしたちは神の掟に対して恐れを抱きます。ですから、自分の罪から逃れたい、と思うのです。そしてさらに、私たちは罪と罪の力から解放されたい、と望むのです。

 

私たちは、自分が、できるだけ罪から逃れてきた、と考える時があるかもしれません。しかし、なお、多くの罪が自分の背後から、再び自分を捕らえようとしている、と感じているのです。ですから、私たちは思うのです。「神が助けてくださらなければ、わたしは裁かれて滅びてしまう。」

 

 神は、今、私たちに何を語られるのでしょうか。モーセに語られた言葉の通りです。「あなたは福音を伝えなさい。そして、言いなさい。『前へ進みなさい。十字架の前に出なさい。あなたのために血を流された救い主の前に進みなさい。』」

 

 その時、私たちは言うでしょうか。「自分の前には、神の怒りが立ちふさがっている。自分は今、光ではなく、闇に包まれている。そして、裁きの火が燃えている。」

 

しかし、イエス・キリストはあなたに言われるのです。「前進しなさい。どのような困難があなたの前にあっても、前進しなさい。わたしがあなたを救い、導き、神の怒りの海をすぐに二つに分けるからだ。わたしはあなたのために神の怒りをすべて引き受けた。」

 

 あなたが神の御言葉に従って前進するならどうでしょうか。イエス・キリストがあなたの両側から神の怒りを押さえる壁となってくださるのです。ですから、あなたを守られる救い主を受け入れて、信仰の道を前進する事、それが求められるのです。神によって救われた私たちは、言うでしょう。「自分の罪のすべては、海の底に沈んで覆われてしまった。」

 

 私たちは、イエス・キリストの福音を受け入れるように求められる時、何と言うでしょうか。「では、良く考えましょう」と言うでしょうか。しかし、私たちは、考えれば考えるほど、迷うのです。そして、考え続けるならば、決してイエス・キリストを受け入れることはできません。なぜなら、イエス・キリストが私たちを救ってくださることは、神の恵みだからです。私たちは、神の無限の恵みを自分の力でとらえ尽くすことはできないのです。

 

「自分は救われるに値いしない」と考えることがあるでしょうか。しかし、救いは、その人が救われる価値があるから与えられるのではないのです。全く価値がない者に与えられます。すなわち、恵みとして与えられるのです。

 

 私たちは、「もし、救われなかったとしたら」と考えるでしょうか。あるいは、「わたしは信じる価値もない」と思うでしょうか。神の恵みは、あなたの価値によって与えられるのではありません。そのことをもう一度、心に留めましょう。救われるためには、前進することです。主の御元に行くことです。それ以外、何も求められていないのです。

 

何かを果たすことが求められているのではありません。単純素朴です。「ただ信じなさい。」これだけです。救い主があなたのために傷を受けられ、そして死んでくださいました。そこに信頼することです。その時、あなたは救われるのです。

 

 確かに、サタンは私たちに囁きます。「行くな、前進するな、戻れ、元の場所に、昔の罪に。」そして更に言います。「前に進んでも無駄だ。イエスを信じても無駄だ。結局は滅びるのだ。」これ以上の嘘はありません。

 

本Ⅱ(民に与えられた命令前進せよ)

 

 第二に、民に与えられた命令について、もう一度深く考えましょう。神が語られたことは「前進せよ」です。イスラエルの民たちは考えたでしょう。「前には海がある。どのように進めというのか。もし、このまま進んだら、私たちは確実に死ぬではないか。泳げというのか。向こう岸に着くまで、どれだけの距離があるのか、知っているのだろうか。自分たちは、家畜も、財産も、小さな子供たちをも失うだろう。自分の命さえ失うだろう。」

 

このような人間の思いに対して、神はなんと言われたでしょうか。「彼らを前進させよ」、これだけです。主が「前進せよ」と言われるならば、ただ前に向かって進むのみです。

 

 回心を与えられて救われた人たちが、困難を前にする時があります。その時、「どうしたらいいのか」と悩むかもしれません。その質問に対する答えは一つです。「前進せよ。」また、ある人たちは考えられます。「信仰を保とうとすれば、商売が成り立ちません。自分の家族が飢えてしまいます。むしろ、このような状況の時、信仰を捨てる以外には良い道が見つかりません。」

 

答えは何でしょうか。「前進せよ」です。キリストの十字架の前に進み出ることです。あなたのために死んでくださったお方が、あなたを捨てることはないのです。ただ、神に委ねるのです。自分だけでなく、自分の家族も、です。

 

 殉教者たちは、杭につけられ、絞首台に立たされ、牢獄で死を迎えました。その時、彼らに与えられていた命令は何でしょうか。「前進せよ」です。今も、洪水があり、火事があり、そして、さまざまな病気があります。

 

その時、神は私たちにどのように語られるでしょうか。「前進せよ」と語られます。神の御心を知ったならば、前進するのです。前進する力は私たちにはありません、とおっしゃるでしょうか。確かにそうです。ですから、イエス・キリストは私たちに聖霊を送ってくださったのです。前進するのは、聖霊によってです。

 

 私たちが、この世において、誉れや栄光を求めるならば、私たちは恐れなければならないでしょう。しかし、神は、あなたをご自分の者としてくださいました。誉れと永遠の命を与えてくださるためです。こうして、私たちは、主のために生きる者とされたのです。

 

 確かに、前進せよ、と語られるとき、臆病になることがあるかもしれません。体が緊張し、震えて来るかもしれません。その時、神は、「前進せよ」と語られます。それでもなお、私たちは言うかもしれません。「わたしは、このことについて良く考えなければなりません。」

 

そのように言う私たちに、神はなすべき務めを与えられます。それが心地よいか、そうでないかに関わらず、神は「前進せよ」とおっしゃいます。これは、神がわたしに命じていることだ、と感じることもあるでしょう。そうであれば、命じられるようにすること、それが求められています。イスラエルの民の前には、海がありました。しかし、なお、民は歩くための道を与えられました。そして前に進んだのです。

 

本Ⅲ(神の約束の地に向かう民)

 

 第三に、イスラエルの民は神の約束の地に向かう民であったことを考えましょう。神の約束の地は「カナンの地」でした。カナンの地は、今の私たちにとっては、天国、神の国を表しています。そして、神はそこへ向かって前進せよ、と語っておられます。

 私たちが臆病になるのは、いつでしょうか。それは、約束されていることが、確かに果たされるのかどうか分からない時です。しかし、その時に、約束が真実であることを確信させてくださるお方がおられます。それは聖霊の神です。神が「前進せよ」と言われるとき、聖霊は私たちに前進する思いを与えてくださるのです。

 

 確かに、私たちは、地上において、恐れから完全に解放されることはありません。しかし、今、神があなたに語られるのは「前進せよ」です。創世記に登場するアブラハムは信仰の父、と呼ばれました。なぜなら、信じることができないように思える時、なお神を信じ、神に信頼したからです。アブラハムは、わたしが示す地に行きなさい、と命じられました。その時、留まるのでも、戻るのでもなく、「前進」しました。

 

 今、私たちに求められているのは、イエス・キリストの前に出ていくことです。私たちは、イエス・キリストが自分の救い主でいてくださることに、喜びを感じていたはずです。イエス・キリストが十字架の上で受けられた深い傷は自分のためである、とも告白しました。イエス・キリストの胸に憩い、イエス・キリストの足元に座ることを幸いに感じていました。もし、今、あなたがそうでなければ、神はあなたに言われます。「前進せよ。」

 

 本Ⅳ(困難の中にある民)

 第四に、困難の中にある民、信仰者について考えます。イスラエルの民は、さまざまの試練の中に置かれました。それは、試練を通して民を成長させてくださるためです。私たちの場合も同じです。私たちは、試練の中にある時、神の御前で祈りをささげます。そして、神の御心を知ることを願います。なぜなら、私たちは、自分自身を助けることができないからです。私たちに求められていることは、一つです。神にすべてをお委ねして、前進することです。

 

 それでは、私たちが、神の御言葉に従って前進するように成長するのは、いつか。それは、自分の力やこの世界の何かに信頼することを取り除かれた時です。なぜなら、私たちが弱い時にこそ、キリストの力が現されるからです。

 

そして、一層、キリストに信頼する信仰へと導かれるのです。この世においてあらゆる豊かさを楽しむ人がいるかも知れません。しかし、信仰によって生きることがないならば、それは空しく生きることになります。神は、あなたに、すべてを神に委ねて前進する信仰を求めておられるのです。

 

 イスラエルの民は、葦の海で、神の偉大な力を体験したのです。もしそうでなければ、出エジプト記15:1-21の中にあるモーセとモーセの姉ミリアムの歌を聞くことはできませんでした。ミリアムの歌は21節にあります。「主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた。」

 

かつての時代はそうだった、というのではありません。神は今も変わることのないお方です。神はあなたのために戦ってくださいます。私たち自身は最悪の状況だと考えるかもしれません。しかし、神の御力はその時にこそ、不思議な方法で働くのです。この神の御力に信頼して、前進することが求められているのです。

 

本Ⅴ(神の使命を帯びた民)

 

 そして、第五にイスラエルの民は神から使命を与えられていた、ということを考えます。イスラエルの民は、カナンの土地に入る時には、戦いを経験しなければなりませんでした。しかし、神は「前進せよ」と命じられます。

 

ひたちなか教会は、神がご自身の民を集めてくださるという幻を与えられています。それはまだまだ先のことと考えられるかもしれません。しかし、神に不可能なことはありません。私たちが神に信頼する時、神は私たちの教会を祝福して下さいます。そして、ご自分の民を教会に与えてくださいます。そのために私たちに求められるのは、神に信頼して、前進することです。

 

 私たちの教会は、どうなるのか。そのような不安な思いが起こるかもしれません。しかし、果たされるのは主なる神です。神は全能のお方です。すべての事柄において、私たちの思いを超えた祝福を与えることがおできになります。

 

 ある時には、神は、私たちの前に広大な海のような試練を置かれるかもしれません。しかし、その時こそ、神の御言葉に聞き従う時です。私たちは、今以上にキリストのために行動する必要があります。神は「前進せよ」とおっしゃいました。その通りに、神は私たちを前進させてくださいます。そして、御自身の御心を私たちに明らかにしてくださいます。

 

 私たちに必要なことは、福音を宣べ伝えることです。罪の赦しによる救いを、イエス・キリストを、伝えることです。教会全体が福音に生きるならば、その福音は溢れて周りに広がって行きます。私たちが、御霊に導かれて、人々の魂に語りかけるならばどうでしょう。神は一人一人の魂をご自分のものとしてくださるのです。

 

神のために自分が用いられることを願い求めましょう。そのための熱心を与えられることを願いましょう。神のための働きに遅すぎることはありません。

 

 神は御自身の働き人として、神の言葉を語る人、福音を宣べ伝える人を起こされます。聖霊が福音を伝える人を力づけてくださることを願い求めます。そのために、神の口として用いられる人が起こされることを祈り求めましょう。そして、祈りを聞かれる神に信頼しましょう。

 

 多くの人々が、イエス・キリストによって、罪の赦しを受け、罪から救われるならば、それは神の御業です。その御業のために用いられるために、前進を与えてくださるのは、主なる神です。私たち一人一人が、神の御心を求めるならばどうでしょう。私たちが神のためにさせていただけることは多くあるのです。何もできない、と思う必要はありません。どのような人でも、一人の魂のために祈ることはさせていただけるからです。

 神は今も私たちに語られます。「前進せよ。ただ前に向かって進め。」主なる神は今も、立ちふさがる困難の海を分け、私たちを渡らせてくださいます。そして、私たちに救いの神の御業を賛美させてくださいます。今、神は私たちが「前進する」ことを助けてくださいます。神に信頼する時、教会は神によって豊かに祝福されることを心に深くとどめましょう。

 

お祈りします。

 

 

2024.4.14(日) 礼拝説教

 

平安に至る道

240414

マタイによる福音書92731

 

序文

 今回のマタイによる福音書の中から、特に、2人の盲人たちが持っていた信仰の素朴さに目を留めたいと思います。この2人の盲人たちは、キリストが自分たちの目を見えるようにすることがおできになると信じたのです。そこでこの2人はイエス様に対して叫びました。そして家の中にまで入り、キリストがお語りになった言葉の通りに信じることを告白します。その告白の通りに盲人たちは目が見えるようにして頂きました。

 

 

今回は、この聖書から、第一に、信仰は非常に素朴なものであること、第二に、その信仰が平安に至る道であること、第三に、イエス・キリストに来る人は勝利者となることを心に留めたいと思います。

 

本論1 (盲人たちの信仰の素朴さ)

 第一に考えたい事は、多くの人たちがキリストに来ることを難しい、と考えておられることについてです。私たちが、イエス・キリストを受け入れ、信じると言うことに至るまでの困難とは何でしょうか。それは、自分の心の中にある抵抗です。あるいは失望です。

 

 ある牧師が1人の年老いた女性に尋ねました。「あなたは霊的な重荷を感じたことがありますか。」するとその女性は答えました。「あなたが生まれる前から私は何年も精神的な重荷を感じていました。」

 

そしてこのように言いました。「私の魂が苦しんでいた時、1人の牧師がキリストの十字架に目を向けなさい、と語ったのです。その時、私の重荷は取り去られたのです。」

 

この牧師と一緒にいた1人の青年が言いました。「あなたは絶望を体験した事はありませんか。」この女性は答えました。「口に出して言えないほど多くの絶望を経験してきました。しかし絶望の中で苦しむよりも、絶望を取り去られた時の方がはるかに素晴らしいものでした。」

 

この女性が語っているように、十字架に掛かられたお方に目を向ける人は本当に幸いです。

 

 イエス・キリストを信じる人は、それぞれに多くの体験をして来られました。しかし、どのような体験も他の人と同じ体験をすることはありません。それでもなお、イエス・キリストに目を向ける人は、様々な重荷を取り去っていただいたのです。

 

キリストのもとに行くために、とても長い期間がかかるということがあります。それはどうしてでしょうか。1つの事は、知らなければならないことを、まだ知ることができない、ということがあります。

 

確かに、多くの人たちは福音が語られているのを聞いておられます。けれども、その人がイエス・キリストのもとに来るために必要なことがあります。それは、聖霊がその人の心に教えてくださることです。それまでは、信仰とは素朴なものであるということを知ることができないのです。しかし、その人を救う救いは、素朴なものです。自分の心でイエス・キリストを救い主と信じることによって与えられるのです。

 

 それでは、人が自分の力で恵みを受け、また信じるという事はできるのでしょうか。できません。なぜなら、その人の中に、救われるためには何かをしなければならないという思いがあるからです。それは、片方の足を海の中に入れ、もう一つの足を陸に置いているようなものです。ですから、キリストによってのみ救われなければならない、ということを受け入れ難いと感じるのです。

 

 さらに、私たちの中には誇りというものがあります。私たち人間は、ただ与えられるだけということに満足できないのです。ですから、私たちはどうしても自分自身に信頼しようとします。その結果、私たちは自分の誇りを満足させようとして、神の恵みに抵抗するのです。人間は、自分の力で神を愛することができません。ですから、私たちを救うために神がしてくださったことを、受け入れることができないのです。

 

福音を語る人は、神が、一方的に私たちを救ってくださる、と語ります。神はご自分が憐れもうとする者を憐れむお方である、と語るのです。しかし、ある人は、このことが受け入れがたいのです。

 

 多くの人たちは、語るかも知れません。「人間が持っている権利によって、すべての人は平等に扱われなければならない。」

 

 聖書は、神が、ある人たちを赦し、ある人たちを頑固なままにして置かれる、と語ります。それは、神が、ご自分の御心によって恵みを与えられるからです。しかし、それは受け入れ難い、と感じるのです。なぜなら、自分の中に、自分流の価値観を持っているからです。しかし、救いは、素朴にイエス・キリストに信頼することによって与えられるのです。

 

II(信仰が平安に至る道である)

 第二に、信仰が平安に至る道であることについて考えます。

信仰を持っている私たちは、これまで、多くの苦しみを体験して来ました。そして、ある時には、人生に絶望することも体験したのです。そうであれば、絶望の中にいた私たちは、どのようにして救いに至ったのでしょうか。人は、救い主を信じなければ救われない、ということは確かなことです。しかし、絶望ということが、私たちに救い主を信じさせたのでしょうか。そうではありません。

 

なぜなら、絶望ということは、信じないでいる人たちも体験してきたからです。もし、絶望がその人を救い主に導くならば、絶望した人たちはイエス・キリストを信じたはずです。しかし、その人自身の絶望は、その人をキリストに導くことはありませんでした。むしろ、ますます大きな絶望を感じるようになるのです。ですから、悩みや絶望が信仰に至らせるのではないことを心に留めましょう。

 

 それでは、神の前に罪があると自覚した人は、なぜ救い主を受け入れるのでしょうか。それは、救い主を信じる信仰は、神の働きによって与えられるからです。神御自身が働かれることこそ、人が救われる道なのです。神があなたに求めておられる事は、神の御子イエス・キリストを救い主と信じることです。なぜなら、イエス・キリストはあなたのために十字架の上で死んでくださったからです。

 

神ご自身がイエス・キリストを信頼するように求めておられるのです。神の求めのように、イエス・キリストを受け入れるならばどうでしょうか。神は私たちの心を豊かな平安で満たしてくださるのです。

 

 また、絶望する思いが、自分の心に多くの傷を与える場合があります。しかし、他の罪がその傷を癒すでしょうか。インクのシミを、インクを使って消すことができるでしょうか。私たちの罪が神の恵みをより豊かにするでしょうか。聖書の中で最も大きな罪、と語られているのは不信仰です。しかし、不信仰は私たちを正しい信仰へと導くでしょうか。それは不可能です。

 

 また、サタンの働きというものは、救いにとって必要でしょうか。必要ではありません。キリストによって救われるために、悪魔の手が必要であるということはないのです。サタンは、神を冒涜する思いや絶望を与えようとします。しかし、そのようなサタンの働きが魂を信仰へ導くことはありません。

 

サタンは私たちに対して大きな痛みを与えます。しかし、それ以外のものを与える事はありません。サタンが私たちを打つことによって、私たちの魂が癒されるということはないのです。

 

 それでは、私たちの救いにとって必要な事は何でしょうか。それは、私たちが、すぐにキリストのもとに来るということです。その時、妨げとなることに直面することがあるかもしれません。しかし、私たちは、自分を悩ませるようなことを探し求める事はしなくてよいのです。ただ、キリストのもとに来ること、それだけが必要なのです。

 

信仰は、私たちを自由にするものです。しかし、悪魔の誘惑が私たちにやってくる時はどうでしょう。その誘惑は私たちを縛り付けるものとなります。その時、私たちは不自由になります。ですから、私たちの信仰にとって、サタンによって疑いや恐れで苦しむことは、必要ではないのです。

 

 ある人たちは、信仰を持っておられる両親と共に成長します。そして若い時に聖霊の導きをいただきます。それからイエス・キリストが自分たちを救ってくださると聞いて、この救い主によって救われたいと願われたのです。その人たちは、ただキリストの下に行きました。困っているときに、母親や父親のもとに行くように、キリストのもとに来たのです。そして、救い主を信頼し、平安を見つけたのです。

 

 さらに私たちが考えたい事があります。それは、救われるためにイエス・キリストのもとに来る人たちは、悔い改めを持ってくるということです。この人たちは、かつて自分たちが好んでいた罪を憎んでいます。そして、神の裁きを恐れるとともに、罪に対する恐れも持っています。

 

罪を恐れるという事は非常に大切なことです。なぜなら、罪を恐れることは、聖霊によって、正しいことを求め、きよさを求める、ということだからです。ですから、罪を恐れる人たちは、キリストによって罪が赦されることを覚えて、平安を与えられるのです。

 

 また、キリストに来る人たちは、確かな愛を持っています。聖書の中に、信仰は愛において働く、と書かれている通り、愛するように導かれるのです。ですから、その人たちの心は穏やかな静けさの中にあります。そして、救い主の素晴らしさを信仰の目によって見るのです。

 

 福音は、多くの人たちが体験するような苦痛や苦悩ではありません。ですから、私たちは、悪魔によって押さえつけられることによって救われるとは語りません。むしろ、「イエス・キリストを信じなさい。そうすればあなたは救われます」と語るのです。

 

私たちは多くの人たちに対して、自分自身を痛めつけ、心を傷つけなさい、とは語りません。ただ、神の御子キリストが、深い憐れみによってあなたを包んでくださることに信頼しなさい、と語ります。

 

 もし私たちが、他の人に、キリストから目を離しなさいと言うならば、それは福音ではありません。ですから、キリストを見なさい、と語ります。その事は言い換えれば、キリストから命の水を飲むと言うことです。キリストの渇くことのない永遠の命の水を溢れるままに飲むのです。それによって私たちの渇いた魂は癒されるからです。

 

 福音とは何か。それは多くの言葉で言い表すことができます。しかし単純に申し上げれば、天国のパンを食べることです。また、伝道とは何か。それは、他の人たちに、この命のパンを食べるように勧めることです。私たちがなすべき事は、その人が空腹になるまで待つことではありません。むしろ私たちは、直ちに永遠の命に満ちておられるキリストを差し出すべきです。その結果、その人は聖霊によってキリストのもとに来るのです。

 

 旧約聖書のイザヤ書551節にはこのように書かれています。「渇きを覚えているものは皆、水のところに来るがよい。銀を持たないものも来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳とを得よ。」

これが私たちに対する福音です。

 

 何かを手に持ってキリストに来るのではありません。何も持たないで、神が自由に与えてくださるものを、自由に受け取るのです。キリストのもとにやってきた盲人たちは、キリストの言葉を聞きました。「私にできると信じるのか。」2人の盲人たちはどのように言ったのでしょうか。「はい、主よ」とだけ答えました。

 

今、神の御前におられるあなたはどのように答えられるのでしょうか。あなたに求められているのは、ただイエス・キリストへの信頼です。

 

3(イエス・キリストに来る人は勝利者である)

 第3に私たちが考えようとしている事は、イエス・キリストに来る人は、決して敗北者ではなく勝利者であるということです。

 

 私たちがいろいろな人の信仰の伝記を読むときに、その伝記は興味をかき立てるように書かれています。しかしそのような信仰の歩みだけが敬虔な人生なのではありません。むしろ神に守られて、イエス・キリストを信じながら人生を送った人が幸いなのです。しかし、その人たちの人生は特別なことが起こったことがないように見えます。ですから、書物に残される事はありません。

 

 この聖書の中に書かれている2人の盲人たちもそうでした。彼らはただキリストに来て、キリストが自分たちの目を開けてくださることを信じたのです。そしてキリストが2人の目を開けられた時、それ以外の事は何も書かれていません。しかし、目を開けていただいた2人の前には、イエス・キリストが立っておられました。二人の盲人たちは、栄光に満ちたお方としてイエス・キリストを見たのです。

 

 私たちも、この2人の盲人のように、イエス・キリストに行ったのです。その時、イエス・キリストは私たちの心の目を開けてくださいました。イエス・キリストが私たちに語られたのは、「私にできると信じるのか」という一言です。その時私たちは言いました。「はい、主よ。」この信仰の告白に対して、イエス・キリストは直ちに私たちの目を開いてくださったのです。

 

 罪人である私たちは、すぐにキリストに来ることが求められています。私たちが罪とみじめさの塊であっても良いのです。あるいは考えることもできないほどに空虚であったとしても良いのです。キリストの豊かな恵みによって自分自身がなくなってしまう。それこそが本当に求めるべきことです。

 

自分の誇りとするすべてのものが失われる時、イエス・キリストが私たちの内で輝いてくださるのです。私たちは今、自分が輝くことを求めるでしょうか。あるいはイエス・キリストが私たちの内で輝いてくださることを求めるでしょうか。

 

 ある人は言うかもしれません。自分が犯罪者であって、その姿から劇的に変えられるという体験をすればどうか。それはすばらしいことだ。しかし、自分は道徳的に育ったために、このような変化を見ることができない。」そのように語る人がいるでしょうか。けれども、このような変化というものは、ほとんど役に立ちません。

 

サタンは私たちに対して言うかもしれません。「あなたは自分の人生を変えてはいない。」しかし、その人の変化が大きい場合には、「あなたは行いを変えたけれども、心は何も変わっていない。あなたは大胆な罪人から、偽善に満ちた人になっただけだ。だから自分に正直になるために、以前の姿に戻るべきだ。あなたは本来の自分から遠く離れているからだ。」

 

 このようにサタンが語るときには、私たちには何が残されているのでしょうか。それはただキリストのもとに来ることです。何かを携えてくるのではありません。サタンが囁く誘惑の中から、キリストのもとに来るのです。

 

自分がキリストのもとに来たかどうかわからないと思われるでしょうか。そのときにはもう一度イエス・キリストのもとに来ることです。私たちはサタンと口論すべきではありません。サタンがあなたに対して、あなたはひどい罪人だ、と言うならば、私たちは答えましょう。「その通りだ。しかしイエス・キリストはこの私を救うためにこの世に来てくださった。」私たちにとって必要なことは、ただキリストにしがみつくことです。 

 

 

 今朝、ここにおられるすべての方々がイエス・キリストに信頼すること、それ以上に大きな恵みはありません。キリストはあなたの罪のすべてを背負って、身代わりに苦しんでくださいました。そのような恵みをいただいた私たちに必要なことは何か。それは、キリストがなさってくださったすべてのことを受け入れることだけです。

 

キリストだけがあなたの罪を赦すために、この世に来られた救い主です。私たち自身が何かをすることに信頼することは不必要です。キリストが全てを果たしてくださったことに、今、深く信頼しましょう。そこに、平安に至る道があるからです。

 

 

 お祈りします。

2024.3.31(日) イ-スタ-礼拝説教

 

主は復活された

マルコ16:1-8

240331

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 本日は、イースター礼拝を守ります。この礼拝はイエス・キリストが復活されたことを覚えて、喜びと感謝をあらわす礼拝です。

 

 イエス・キリストの弟子たちは、自分たちの主が十字架の上で死なれるということをほとんど考えることができませんでした。ですから、彼らはイエス・キリストが実際に十字架の上で死なれ、葬られた時に、ただ悲しみに沈んでいたのです。

 

 弟子たちは、イエス・キリストが復活することを、繰り返し聞いていました。しかし、イエス・キリストが復活された時、そのことを信じることができませんでした。それほど、イエス・キリストが死んでしまわれた、という悲しみが強かったのです。自分たちはこれからどのように生きれば良いのか、それが全く分からなかったのです。

 

 イエス・キリストを信じていた女性たちの場合は、どうだったのでしょうか。イエス・キリストが復活されたことを、天使たちから伝えられました。しかし、ただちにイエス・キリストの復活について弟子たちに伝えることができたわけではありませんでした。そのことが、今日のマルコによる福音書16:8に記されています。

「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」

 

 今朝は、この聖書の箇所から、三つのことを考えます。一つは、教会に対して、復活信仰が求められている、ということです。二つ目は、イエス・キリストが復活を信じることができるようにしてくださった、ということです。三つめは、復活信仰を与えられた教会には、使命が与えられている、ということです。

 

(教会に求められる復活信仰)

 第一に、教会に対して復活信仰が求められていることについて心に留めましょう。イエス・キリストは十字架にかかられる前に、弟子たちに復活することをはっきりと語っておられました。しかし、イエス・キリストが三日目に復活することを信じた弟子は誰もいませんでした。ですから、主が復活されたことを伝えた人たちの言葉をも信じることができなかったのです。そこで二つのことを考えます。

 

 一つは、最初に墓に行った女性たちが何をしようとしていたのか、ということです。このことは、16:1-2に書かれています。女性たちはイエス・キリストを愛していました。ですから、生前においても、生活に必要なことについてお世話をしていたのです。そして、その愛はイエス・キリストが墓に葬られてからも変わりませんでした。ですから、彼女たちはイエス・キリストに塗るための香油を買ったのです。

 

 後に、ペトロとヨハネは、イエス・キリストが葬られた墓を見るためにやって来ました。しかし、二人はイエス・キリストが復活されたことを期待していたのではありませんでした。イエス・キリストの復活を心から信じることができないままでした。

 

 弟子たちは、これまでイエス・キリストがなさった多くのしるしを見てきました。例えば、イエス・キリストは、五つのパンと二匹の魚を増やしてくださいました。そして弟子たちは、5000人の人たちにそのパンと魚を配ったのです。

 

また、弟子たちは、イエス・キリストが湖の上を歩いておられる姿を見ました。ペトロは、主が招かれたので、湖の上を歩きさえしたのです。また、嵐が静められ、悪霊が追い出されることをも見ました。ラザロが生き返ったことも見ました。しかし、この時、弟子たちはイエス・キリストが復活されたことを信じられなかったのです。

 

 それでは、このような弟子たちの信じられない思いというものは、今の教会には無関係なのでしょうか。そうではありません。イエス・キリストが復活されたことを知識としては多く人たちが受け入れておられます。けれども、現実に、今、私たちは、「主は生きておられる」と告白するでしょうか。

 

私たちは、信じる人々の間でイエス・キリストの復活を語り合うことはできます。しかし、イエス・キリストを求めていない人たちに対して、私たちは「主は生きておられる」と語るでしょうか。

 

 使徒たちは、かつて、イエス・キリストにどのように願ったのでしょうか。それは「主よ、私たちの信仰を増し加えてください」という願いでした。私たちの主は全能のお方です。その力は無限です。しかし私たちは、ある程度そのことを信じています、と答えやすいのではないでしょうか。私たちは、正直に、自分の信仰の弱さを告白しなければならないのです。ですから、今、私たちに求められているのは、復活されたお方に信頼することです。 

 

(イエス・キリストが復活信仰を回復してくださる)

 私たちは、キリストの復活を大胆に語ることができない場合があります。その時、主は何をしてくださるのか、ということについて考えます。それは、イエス・キリストが、ご自身の復活を、私たちの中に強く確信させてくださる、ということです。それはまた、聖書の中に、ご自身の復活について、確かな証拠を与えておられる、ということです。

 

 本日の聖書の中に登場する女性たちも、イエス・キリストの復活を信じることができませんでした。ですから、16:3で、「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と語っています。彼女たちの不安を拭い去るのは、ただイエス・キリストの確かな復活です。

 

 16:5に書かれている白く長い衣を着た若者とは、天使のことです。天使は女性たちに語りました。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」

 

 私たちはイエス・キリストを信じ、このお方にお仕えしています。それでは、私たちが困難を覚える時、何を考えればよいのでしょうか。それはイザヤ書9:5に書かれています。「権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」

 

 私たちが信じているイエス・キリストは、復活されたお方です。そしてこのお方は、全能の神であり、今、生きておられるお方です。ですから、このお方の前に、困難ということはありません。

 

確かに、私たちは、多くの困難が目の前にあると思うことがあります。そして、私たちが解決することは不可能であると考えられるのです。しかし、主イエス・キリストは力ある神です。ですから、このお方に不可能なことはありません。それは、わたしたちにとって、大きな励ましです。

 

 それでは、天使は、女性たちに何を語ったのでしょうか。それは「あの方は復活なさって、ここにはおられない」という事実です。イエス・キリストは死んだままではありません。イエス・キリストの力は墓の中に閉じ込められているのではありません。主は、ご自分に信頼するすべての人々のために、最初に復活してくださったのです。

 

 ですから、主は、約束の通りに、あなたと共におられます。イエス・キリストが生きておられることは、あなたの力なのです。様々の困難が私たちの前に鉄の壁のように立ちふさがる時があります。その時、イエス・キリストが復活され、今生きておられることを信じるならばどうでしょうか。主がその困難を取り去ってくださることを見るのです。そして、私たちは、心から神を賛美させていただけるのです。

 

 また私たちの不信仰というものが、私たちを恐怖に陥れることがあります。ここに登場している女性たちもそうでした。16:8には「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と書かれています。私たちは困難を前にする時、怯えること、臆病になることがあります。確かに、頼ることができるのは自分だけだ、と思いますならば、私たちは震えるでしょう。

 

 しかし、キリストの力は、私たちをはるかに超えているのです。戸惑いが私たちを覆う時に主を仰ぐならば、私たちの心は落ち着くのです。主が困難に勝利してくださることによって安らぐのです。

 

かつてモーセは、葦の海を前にした時、イスラエルの民に語りました。出エジプト14:13「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」この言葉を深く心に留めるならば、戸惑いから解放されるのです。

 

 私たちにとって、最善の心の癒しは何か。それは、イエス・キリストが復活されたという事実です。主イエス・キリストは、あなたの王、そしてあなたの羊飼いです。主が、あなたを守ってくださるのです。ですから、あなたは恐れる必要はありません。

 

もし、主が死んだまま、墓の中で朽ちてしまわれたならば、確かに望みはありません。しかし、今、主は私たちに語られます。ヨハネ14:19「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」さらに言われました。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」

 

 イエス・キリストは、永遠に生きておられます。そして、永遠の命を与えてくださいます。ですから、私たちも永遠に生きるのです。その恵みを与えられた私たちは、決してイエス・キリストから引き離されることはありません。

 

 私たちは、人間を恐れる必要はありません。なぜなら、復活され、生きておられる救い主によってあなたは憩うことができるからです。私たちが恐れや震え、また怯えを感じているならば、静かに主を見上げましょう。イエス・キリストはあなたを救ってくださるためにおいでになり、今も生きておられるからです。

 

 今日はお読みしませんでしたが、16:10にはこのように書かれています。「マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。」

 

ここでマリアと書かれておりますのは、マグダラのマリアと呼ばれる女性です。イエス・キリストは、マグダラのマリアに最初に、ご自身を現わされました。ですから、マリアはイエス・キリストが復活されたことの証人とされたのです。

 

しかし、マリアが弟子たちの所に戻ると、人々は泣き悲しんでいたのです。その人々にとって、イエス・キリストが死んだことは確かなことでした。そして、イエス・キリストが復活されることは、全く心に思い浮かびませんでした。ですから、ただ泣くばかりだったのです。

 

 今、私たちはイエス・キリストが生きておられることを知っています。そして、イエス・キリストが復活されたように、私たちもまた復活することを知っています。多くの人々はどこに希望を持つことができるのか、と悲しむかもしれません。しかし、私たちは同じように悲しむことはいたしません。確かに私たちも墓に葬られます。けれども、それはほんのひと時です。

 

 やがて、この地上に生きている人は、高らかなトランペットの音を聞きます。その時、私たちの体は復活するのです。私たちが、いつも、自分自身の体が復活することを覚えていることはすばらしいことです。なぜなら、私たちが復活する時には、死は私たちに対して、全く力を失うからです。イエス・キリストは栄光に輝く体で復活されました。同じように、あなたもまた、栄光に輝く体で復活するのです。

 

 主イエス・キリストが死んだままであったならば、私たちに希望はありません。しかし、イエス・キリストは今も生きておられます。ですから、私たちは自分たちの目の涙を拭い取っていただけるのです。そして、私たちは勝利者とされ、魂は天国に入れていただけます。体はしばらく墓の中に休みます。しかし、私たちの体は確かに復活するのです。

 

(信仰を回復された教会の使命)

 このように、イエス・キリストを信じる人はすべて、自分自身の体が復活することに希望を持つことができます。それでは、そのような希望を持つ私たちに対して、イエス・キリストは何を求めておられるのでしょうか。それが、16:15に書かれています。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

 

 主は今、生きておられます。そして、いつも私たちを見守っておられます。ですから、私たちは忍耐強く、信仰の道を走らせていただきましょう。信仰による忍耐は、私たちを主のための働きへと導きます。そして、主は私たちを通して、ご自分の栄光を現わしてくださいます。

 

 更に主は、最初の教会に大きなしるしを与えてくださいました。それは、弟子たちの上に聖霊が降られたことです。聖霊によって、弟子たちはこれまで話したことがない外国の言葉でキリストによる救いのすばらしさを語りました。

 

その時から、弟子たちはイエス・キリストの福音を人々に伝え始めました。人々は、弟子たちの語る福音を聞いて、イエス・キリストを信じました。それは、主イエス・キリストの恵みによる大きな奇跡です。

 

 私たちは、体の死だけでなく、魂が死んだ状態の人々に語ることが求められています。多くの人たちにとって、復活は愚かなことのように思われます。しかし、私たちは旧約聖書にあるエゼキエル書の中にある情景を思い出しましょう。

 

 エゼキエル書37:1-14には、エゼキエルが、ある谷に、枯れた多くの骨が一杯になっているのを見たことが記されています。しかし、主なる神はこれらの骨に向かって語られます。「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。するとお前たちは生き返る。」

 

この言葉が語られると、谷にあったすべての骨が、音を立てて集まり、やがて大勢の人間の体になりました。そして、神の霊がそれらの体に吹き付けると、その人々は生き返り、自分の足で立ちました。同じように、しばらく墓に休んでいる体も、神の霊、聖霊によって生きる者、復活する者としていただけるのです。

 

 私たちは、多くの人たちに「信じなさい。そうすれば生きるのです」と語ります。その時、何が起こるのでしょうか。それは、多くの人たちの心が、神に向かう、ということです。そして、イエス・キリストを信じる人は、生きる者とされ、希望の中で喜ぶのです。

 

信仰者たちは、今に至るまで、神が置いてくださった所で福音を語り続けています。言葉で、あるいは行いによってです。その時、主なる神は信仰者たちを、霊的な奇跡を行う人として用いられるのです。すなわち、人々の心を開くために用いてくださるのです。

 

 イエス・キリストは復活され、今、天におられます。そして、私たちが福音を語るようにしてくださいます。霊的に死んでいる多くの人たちが生きるように用いてくださいます。

 

その時、人々が福音を聞き、心が開かれるようにしてくださるのはどなたでしょうか。16:20にはこのように書かれています。「弟子たちは出かけて行って、至る所で宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」

 

 弟子たちと共におられる主が、弟子たちの語る福音が真実であることを明らかにしてくださったのです。主の御姿も、働く様子も、今、私たちの目には見えません。しかし、確かに主は働いておられます。人が、自分の思いを語るとすれば、空しく終わる、ということもあるでしょう。しかし、主が語られるならば、決して空しく消えてしまうことはありません。

 

 主イエス・キリストは復活され、今も生きておられ、死に対する勝利を得ておられます。この事実を知ることは私たちにとって大きな慰めです。私たちは、深く悲しみ、耐え切れずに涙を流すことがあります。しかし、主はその悲しみを喜びに変え、涙をぬぐい取ってくださいます。

 

 あなたがイエス・キリストを愛するならば、主が復活されたことを本当に喜ぶことができます。今も、イエス・キリストは、私たちを見守り、慈しんでくださいます。さらに慰めと愛をもって私たちを覆い包んでおられます。そして、あなたが、生き生きとした命と希望の中に生きようにしてくださるのであります。

 

 

 お祈りします。

2024.3.22(日) 礼拝説教

 

死による勝利

 240324

 イザヤ書5311-12

序論

 本日は、受難週の礼拝を守ります。受難週とは、イエス・キリストが十字架につかれるまで、苦しみを受けられた1週間のことであります。十字架につかれた救い主は何をしてくださったのか。そのことは、イザヤ書の53章によく示されています。今回は、特にその中から1112節の御言葉に心を留めたいと思います。

 

本論1(キリストの勝利は確かである。)

 最初に考えたい事は、キリストの勝利は確かであると言うことです。なぜなら、キリストが勝利される事は、神の約束だからです。神は決して偽りを語られる事はありません。

 

 5312節の最初にはこのように書かれています。「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。」これは、神が、戦利品として多くの人、多くの信仰者をキリストの取り分とされるという約束です。

 

しかし、この約束が果たされるために、絶対に必要なことがありました。そのことが11節の後半にこのように書かれています。「わたしの僕は、多くの人が正しいとされるために、彼らの罪を自ら負った。」

 

この11節の言葉の内容は、7節でより詳しく語られています。そこには、このように書かれています。「苦役を課せられて、かがみ込み、屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」私たちは、この御言葉が、確かにイエス・キリストによって果たされたことを知っています。

 

 さらに勝利を保証しておられるのは父なる神ご自身である、ということを心に留めましょう。父なる神が語られたことは、必ず果たされます。ですから、父なる神が、御子イエス・キリストに約束をなさったこともまた、確実に果たされるのです。

 神の御子イエス・キリストがなさった御業は、勝利の御業でした。この勝利は、罪に対する勝利です。そして、この世の君であるサタンに対する勝利です。勝利ですから、12節には、「戦利品」という言葉が用いられているのです。

キリストは、勝利者として戦利品を受け取られるのです。確かに、イエスキリストは小羊のように優しいお方です。しかしまた、ユダ族から出られた獅子である、ライオンである、と語られています。そのお方が戦おうとされる時には、誰もその前に立ちはだかる事はできません。キリストは力に満ちたお方だからです。

 

本論2(栄光に輝いている勝利)

 第二に、キリストの勝利は栄光に輝いている、ということを覚えましょう。キリストの勝利は、多くの人が救われるために欠かすことができないものです。主が救いの御業を果たされましたから、数え切れないほどの魂が贖われ、救われるのです。

 

 救い主の御業とは、何か。それは、救い主が十字架の上で死んでくださったことです。それは、罪人の罪をご自分の身に背負われた死でした。その御業のゆえに、おびただしい人が罪を赦されて、永遠の命を与えられるのです。

 

キリストが十字架の上で死んでくださったので、サタンの力は打ち破られました。サタンは、私たちに罪を犯させ、死に至らせようとするのです。死というものは、人間を恐怖によって支配するものでした。しかし、キリストは罪人のために死んでくださいました。ですから、死は、その力を失ってしまったのです。

 

 私たちは、かつて、自分の行く末を考えて憂いている者でした。あるいは、サタンの餌食になってしまうのではないか、と嘆く者でした。しかし、今や、そのような憂いと嘆きは必要ありません。なぜなら、キリストの救いは、サタンの悪意よりもはるかに力強いからです。

 

キリストは永遠の神であられ、救い主です。どのような悪魔の策略も、キリストの御力と権威の前には無力なのです。ですから、イエス・キリストはおっしゃいました。「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」

本論3(勝利はキリストの御業から出ている。)

第三に、勝利はキリストの御業によっている、ということを心に留めましょう。12節の最初の部分をもう一度お読みします。「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。」

 

 私たちは、「それ故、私は多くの人を彼の取り分とした」と書かれていることに注意しましょう。ここには、「それ故」と書かれています。なぜ、「それ故」と書かれているのでしょうか。その答えについては、「彼が自らを投げ打ち、死んだからだ」と書かれています。

 

イエス・キリストは、神なるお方です。そのお方が、人となってこの世においでになりました。しかし、神が人間の姿をお取りになったのはなぜでしょうか。それは、人間として苦しみ、死なれるためです。

 

けれども、キリストは十字架の上で、空しく苦しまれたのではありません。また、空しく死なれたのでもありません。キリストは、罪人の身代わりとして苦しまれるために、真の人となられたのです。そして、ご自分が死なれることによって、勝利を得られたのです。

 

  キリストは、多くの人をご自分の取り分として与えられました。それはなぜでしょうか。そのもう一つの理由として「罪人の一人に数えられたからだ」と書かれています。

 

救い主は、この言葉の前に書かれているように、自らの命を投げ出されました。そして死んでくださいました。しかし、その言葉の後に、「罪人の一人に数えられたからだ」と書かれています。それは、キリストが死ぬということには、重要な理由があるからです。

 

死ぬ事は、神なるお方の、この上ないへりくだりです。しかし、さらに、救い主は、ご自分が罪人の一人として数えられることを良しとされたのです。それは、ご自身が罪ある者とされることを良しとされた、ということです。

 

罪ある者とされるということはどういうことでしょうか。それは、キリストが罪を犯されたということではありません。キリストは、聖なるお方ですから、決して罪を犯されませんでした。しかし、イエス・キリストは、罪人として数えられることによって、勝利を得られたのです。

 

私たちは、罪を犯したことによって落胆します。その時、私たちは、どこに励ましを見いだしたら良いのでしょうか。どこに慰めを求めればよいのでしょうか。それはキリストが祈りをささげられたゲッセマネの園です。そして、キリストが十字架にかかられたゴルゴダの丘であります。

 

しかし、キリストは、空しく苦しまれたのではありません。キリストは理由もなく、人々から軽蔑されたり、中傷されたのではありません。また、理由もなく、罪人たちの一人に数えられたのではありません。

 

救い主は、罪人の一人、罪人の仲間になってくださいました。罪人として十字架の上で手と足をくぎ付けにされました。しかし、その十字架によって、救い主は、ご自分を勝利者としてお示しになったのです。この勝利は揺らぐ事がありません。このキリストの勝利こそ、私たちがキリストの死を喜ぶ理由です。

 

 さらに、このように付け加えられています。「そして、彼は多くの人の罪を担った。」これはキリストが本当に身代わりとなってくださったことを示しています。すなわち、キリストは、罪を負うお方として救いの御業を果たされたのです。

 

これは罪ある者たちの仲間として数えられた、ということ以上のことです。キリストは現実に罪ある者たちの罪を引き受けられたのです。それは言葉で説明されて納得できることではありません。ただ信じることによって受け入れられることです。

キリストは、ご自身の肩に罪人たちの罪の重荷を負われました。罪の重荷を身代わりに背負われることによって、罪を征服されたのです。もし、イエス・キリストが罪の重荷をご自身の肩に背負われなかったとすれば、どうでしょうか。罪が征服されることはありませんでした。

 

 そして、12節の最後の2行には、「背いた者のために執りなしをしたのは、この人であった」と書かれています。このお方は人々から軽蔑されました。しかし、このお方がおっしゃるのです。「罪を嘆く者よ。私があなたの身代わりになろう。」

 

キリストは、父なる神に祝福されたお方です。そして、父なる神に愛されたお方です。しかし、そのお方が、罪人のために執り成しをしてくださるのです。「父よ、私の受けた傷と流された血と苦しみのゆえに、この人を救ってください」と祈ってくださるのです。この祈りが聞かれない、ということは決してありません。

 

ヨハネによる福音書17章にはイエス・キリストの祈りが書かれています。それは過去の祈りではありません。今も、父なる神は、キリストの祈りを聞き届けていてくださるのです。

 

私たちは、主イエス・キリストの救いの御業について十分に理解できないものです。また、私たちは、キリストのために何をしたら良いのか、と悩むこともあります。しかし、そのような時、イエス・キリストは、それら全てについて、執り成しの祈りをささげてくださるのです。

 

キリストは、ご自分の十字架の死によって、罪に対して勝利されました。ですから、キリストは言われたのです。「あなたがたには、世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 

ですから、私たちは、キリストを仰いで、この世にあっても勇気を出しましょう。あなたは、自分が、弱く、か細い心しか持っていない、とおっしゃるかもしれません。しかし、私たちは喜ぶのです。

 

その喜びは、私たちが持っている何かによるのではありません。また、私たちが何かを行うからでもありません。主イエス・キリストが十字架の上で死んでくださって、罪に対して、サタンに対して勝利されたからです。

 

 

主イエス・キリストのゆえに、私たちは、確信するのです。やがて完全な勝利が与えられることを。ですから、この受難週の時、主イエス・キリストの勝利を心から賛美しながら歩みましょう。

 

祈りましょう。

お知らせ

【 礼拝 】      

・2024年5月5日(日)

【メッセ-ジ】

「  この人は誰か 

         岡本 惠代理牧師  

・聖書:マタイ21:6~11

・讃美歌:546番,62(1,3),

 385番(1,3),206番,539番

〒312-0003

茨城県ひたちなか市足崎1474-307 

TEL 029-272-5017

 

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     2024.4.28(日)礼 拝 

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