序.

現代西欧のプロテスタント教会では、教会員が教会から離れ、神に対する愛を失ってしまっている。ある者は、禅宗やイスラム教に走りあるいはオカルトに集団に参加したり、まさにキリスト者の大脱走が起きている。この理由の、一点は信仰への確信を放棄したからに他ならない。こんな事が起こってしまったのは、教会で重要な教理についての教育がしっかりと行われて来なかったからである。信仰者は、真に生きておられる神についての正しい知識、敬虔な祈りにおいてその依り所が明確にされていなかったからである。決してキリスト教は、神秘的な雰囲気の中で信仰が醸成されるものでなく、1コリント14:20「兄弟達、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になって下さい」 とあるがごとく、正しい判断は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」 によってのみ与えられるのであります。そして“規範される規範”である信仰告白は、正しい神知識へと導く道路地図あるいは海図のようなものである。この信仰告白・大教理・小教理は、この地上で旅人たる私達が、その全生涯に渡る神への謙虚な畏れと伝道への熱意を保持して行く上での道しるべである。

この信仰告白は、17世紀の状況に合わせて作られているから、古くて役に立たない等と、読まずして暴言を吐く者がいるが、確かに国家と教会の関係は大きく変化しているが、その中に一貫として流れている救いの恵みの契約と、聖霊の働きは今日でも全く真実であり、まして三位一体なる神様に変化があるはずがない。どうかこれを学ぶ方々が、キリスト教信仰の頂点であるカルヴァン主義神学の真髄を汲み取って頂きたい。

 

聖書論          第一章

神論         第二章~五章

キリスト論・人間論  第六章~第八章

聖霊論        第九章~第十八章

教会論        第十九章~三十一章(十九章~第二十四章 倫理篇

                    第二十五章~三十一章 教会篇)

終末論        第三十二章~第三十三章 

 

この様に改革派信仰が体系的に告白されている。

ウェストミンスター信仰基準の信条としての三大意義

 歴史的意義=恩恵主義、福音主義

 学問的意義=教理の叙述が正確、均衡がとれている、明白である、徹底し

  ている、注意深く論じられている。

 霊的意義=御言葉に基づき、信仰深い、霊的真理を述べている、キリスト

  教の思想と生活を現している、実際的叙述になっている。

 

ウェストミンスター信仰告白の教理内容は四層で表現されている。

① 正統的教理である。   三位一体二性一人格を述べている。

 プロテスタント的教理である。 聖書の規範性、信仰義認、善き業、

  ローマカトリックへの批判(教皇の否定、ミサの否定、煉獄の否定、独身

  性の否定)

 改革派的教理である。 カルヴィンの五特質(TULIP)の表明。

 ピューリタン的教理である。 安息日規定に立つ。 

  (カルヴィンは主の日理解であった)

これらの歴史的背景、教理的背景を踏まえて信仰告白を学んで行きましょう。

 

 

  第一章  聖書について  (40周年宣言集も参考にして下さい)

 

聖書は、神と救いについて唯一の権威ある手がかりを、聖霊を通して知らしめて下さっている、神の御言葉である。

 

 第1節 自然啓示(一般啓示)と特別啓示

神知識には二つの源泉があり、それらは一般啓示と特別啓示として知られている。一般啓示は、神が造られた被造物の中に現した物をさすのであり、特別な人や時に限定されず、しかもあらゆる時代のあらゆる人々に属する。特別啓示は、神が色々な時に選ばれた民に対して成す事であり、今は聖書において与えられている。「自然の光、本性の光」「創造、摂理」で表現されている。然し、

今やそれだけでは神の御旨を知るには不十分である。 ローマ1:18

一般啓示は、「人間が弁解できない」ほどに十分な神知識を表すとは言え、救いに必要な知識を与えるには十分でない。そして人間は神を神として崇める事をせず、罪深い存在であった。そして神が豊かな自然を与えて下さっていることにも感謝できないほどに盲目であり、神を信じない者はそれに感謝さえ成す事さえしなかった。人間はその結果、空しい思いにふけり、自分では知識があると誤解をし、高ぶりをもって吹聴する者と成り下がった。そして、被造物にすぎない物や、想念によって刻んだ物を礼拝した。

従って神は民の救いの為に、旧約の時代は神顕・奇跡・預言者を通して、又新約の時代は聖書を通して、ご自身を啓示され、教会に対して御旨を表して来られた。そしてイエスキリストは、人間の形をとられた神の御言葉そのものであった。これが聖書を最も必要なものとしている意味であり、イエスキリストの到来により、旧約時代の方法は今停止しているのである。

聖書の役割は三つある。

 真理を長きに渡って保持・保管する。

 それを持って伝道する為、単なる学問研究の為でない。

 教会を保持、発展させる為、世界中に教会を建設する為である。

 

 第2節 聖書とは何か

 聖書とは、記された神の御言葉である。今では旧約39巻、新約27巻が正典とされ、その全ては神の霊感によって(神によって息吹かれた)与えられたところの信仰と生活の規準である。

 

 第3節 経外典について

 新共同訳聖書では続編と表されているものである。BC4世紀の72人訳聖書では正典として扱われ、またAD1546年の第四回トレント公会議でローマカトリックはやはり正典とした。しかし、宗教改革者は 「空白の400年間を埋めるには、有益で読むのに良い一面はあるが、神の霊感によらずイエスキリストを告白していないので、聖書としては受け入れられない」とした。最近考古学的に多くの文献が発見されているが、正典を覆すものは無く、益々正典の権威が高められている。多くの発見された資料は、事実において虚偽であるか、教理について福音的でないか、道徳において不健全である。だから、これらの続編と言われるものは、教会の中では正典と同列に扱われてはならず、また神の権威を表現するものでも無い。これらが正典と同列に扱われたり、使用されたりしてはならない。

 

 

 4節 聖書の権威  

ここで言われているのは、聖書はその権威をいかなる人間的な源泉から引き出さず、聖書の権威はひとえに神から来ると言うことである。この権威は、神の言葉としての聖書に内在しているものであって、外在的な即ち「人間や教会」

によって付与されるものではない。これは当時のローマカトリックは、教会が正典を確立したのだから聖書はその権威を教会の証言に負うとしていた。また、聖書解釈の権威もローマ教会にあり、信徒達に聖書を読ませなかったのである。

そして、啓示の源泉は聖書と使徒伝承にあり、聖書の唯一の解釈は教会のみとトレント公会議(AD1563)で定めてしまった。これにより教会の権威を聖書の上に置いてしまったのである。そこで宗教改革者達は、<信仰のみ> <聖書のみ> の二大原理を掲げ、信仰と道徳の究極的権威を聖書に定め、使徒伝承はあくまで人間の言葉であり何の権威もない事を主張したのである。第二バチカン公会議(AD1962)で堅実な聖書研究が決議された後、大きくローマカトリック教会が改革されたが相変わらず使徒伝承を「同じ神の泉から流れ出ている」として取り扱っている。しかし、確実にローマカトリック教会内部で“聖書のみ”の原理に立ち帰ろうとし、聖書の権威の優位性を認め使徒伝承を人間の言葉であると解釈するカトリックの神学者が、登場してきたのも事実である。

新約聖書の福音書や書簡は、ルカやパウロなど人間が書いたのは事実ですが、それが神的権威があるのは、改革派の理解では聖霊がその著者達を霊感(息吹かれ)し、その者の性格、才能、能力を十分に用いられ真理を誤り無く書き記せるようになされ、且つ一切の誤りから守られたからである。(有機的霊感説)

決して霊感によって、一種の幻覚の中で自動書記の様な環境で書かれたのでは無い。(機械的霊感説)それ故、我々は聖書の著者である神の権威に従って、聖書を読みかつ聞き従わねばならないのである。

 

 5節 聖書は、何故信じられるか

 「聖書に対する高く敬虔な評価」とは、聖書が神の御言葉としての特別な資質を持っている事を指す。その合理的証拠は、教理、文体、あらゆる部分の一致、目的、救いの方法等の外的証拠と、御言葉と共に働く聖霊による内的証拠である。この聖霊は、御言葉と共に御言葉により、私達の心の中を照らして下さり聖書を理解出来るようにして下さるのである。では、聖書が真の神の御言葉であるという確信に、どのようにして到達出来るのであろうか。それは聖書の著者は、最終的権威を持たれる神であり、人間の経験や公会議の決定に依存していない事において証明される。

聖書は真に神の言葉であり、どの箇所にも神の言葉としての真正性を備えている。そして聖霊の御業において、我々は神の御言葉として受け入れる事ができ、その聖霊の励ましにより、我々は「アッバ、父よ」 と呼びかける事が出来るのである。そして独り子イエスキリストの贖罪による救済は、聖書の中に書かれており、それは完全な神的権威とキリストの権威ある御言葉によって裏打ちされている。そして救いの恵みの契約において、只々イエスキリストのみに従い、認め、受け入れ、寄り頼む事を誓約し、永遠の命に至れるのである。

 

 6節 聖書の十分性

聖書は聖霊の学校であり、そこには神ご自身の栄光と、罪ある人間の救いと、信仰と、生活の為の知識が記され必要な事何一つ省略されていない。それ故、

この聖書に追加したり削除されたりする事は、人間には許されていない。聖書は、神がそれを計画され人を用いて書いて下さった目的の光で読まなければならす、あらゆる知識の源泉である。

カルヴァンの「綱要」では、次の様な主旨の表記がある。「世界を創造する前に神は一体何をされていたのか。神は、あまり好奇心を持ちすぎる人々に地獄を用意されていた」 つまり聖書は、我々の好奇心を満足させるものでは無く、不毛な思弁や論議を必要とするものでも無い。全ての問が現世の中で答えられる訳でない。 1コリント13:12「私達は、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔とを合わせて見る事になる。私は、今一部しか知らなくとも、その時には、はっきり知られているようにはっきり知る事になる」 確かに今一部しか知らなくても、神が示された知識は現世において生活する上では全く十分である。このように聖書が神の御言葉であり、救いに役立つ様に理解できるのは、聖霊の「内的照明」が無ければならない。信仰なき者は、神との関係をにおいて書かれている聖書を、単に文学的あるいは文献的範囲だけで読もうとし、神の御旨を理解する事は出来ない。即ち聖霊の御業が働いていないからである。聖書の神的権威の確信の為にも、霊的で救済的な理解の為にも、聖霊の助けを常に祈りつつ、熱心に聖書をそのものを学ばねばならない。

神礼拝に必要なあらゆる設備、又は教会統治という実際的な面については、聖書に示されている根本原理を、夫々の時代の状況、場所、社会、政治、文化の中で具体化していく必要があります。聖書に書かれている原理を現状に無条件的に適合させると言う事でなく、その都度礼拝指針・政治基準・訓練規定などを聖書にそって、作成し、また改定していく必要があります。信仰的思慮を用いて具体的な課題を処理する事を求められています。

 

 7節 聖書の明瞭性

ここでは二つの事が言われています。一つは、聖書の中のあらゆる事柄が明瞭で分かり易いと言う事はない。2ペテロ3:16「その手紙には難しく理解し難い箇所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書の他の部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています」この様にペテロでさえパウロの書いた事をよく理解出来ませんでした。この意味では、聖書に書いてある事を正しく理解するには聖霊の助けを得て、一貫とした学びが必要であり無知と浅薄さが奨励されてはなりません。第二に、聖書に書いてある救いの恵みについては普通の人でも理解でき、それは充分に明瞭・明確であります。救いに関わる重要な事柄は、決して専門家の領域でなく普通の良識を持った者が理解出来るように書かれています。宗教改革が起こるまでは、ローマカトリックでは聖書解釈は普通の人では誤るので、解釈は教会の専権事項であり、ラテン語だけの聖書を使い、信者は分からない言葉を聞いているだけでありました。これに対して、宗教改革者は一般の信者が理解できる普通の言語に翻訳する事にしました。おかげで聖書が普通に読まれ、語られ、学ばれるようになりキリスト教解釈が、一部の階級の独占から一般の人々の手に移り、神の御言葉が、多くの人々に伝わりイエスキリストが命令された福音伝道が広くなされるようになったのであります。

確かに聖書を読む人によって、理解の程度に差がある事は事実ですが、救いのために私達が、信じ、知り、守る必要のある事柄は明瞭であるので聖書全体を読むと、ある箇所が難解であっても他の箇所にもっと易しい言葉で書いてあります。そこを読めば理解出来ますし、教師に尋ねても良いのであります。つまり、通常の手段として教会の中では色々な勉強の会が用意されており、そこでの学びや、あるいは信仰基準の学びを通して理解の助けが得られるのです。

大教理問答問154~157には、救いに至る有効な手段について述べられていますので、そこをお読み下さい。

 

 

 8節 聖書の原典と翻訳聖書

 

聖書といわれる時に、旧約はヘブル語聖書、新約はギリシャ語聖書に権威があります。ローマカトリックではラテン語ウルガダ聖書を究極的権威として扱っていました。これは誤りであります。確かに真正な原典は今日目にする事は出来ませんが、聖書は数千にも及ぶ写本あるいは断片、古代の翻訳、教父達の聖書引用文などを使い本文を確定する本文批評学によって原典に大分近付きました。「神の独特な配慮と摂理」によって多くの写字生に、霊感が働かれ長い年月に渡って正確に書き写され聖書が保持されて来ました。特に「死海写本」「ナグハマデイ文書」などの近代の発見は、多くの新しい証拠において聖書の信頼性が証明されました。ローマカトリックでも、これらの事実に抗し切れず第二バチカン公会議で、あらゆる国民に聖書が行き渡るように聖書翻訳を公認し、自分達の信徒がその霊的成長を計る為に、自ら聖書を読むことを奨励し、聖書の研究と学びを積極的に開始しました。このように宗教改革者の理念が400年後に実現したのであります。こうして全ての国民に翻訳された聖書は、今日200数十に及び、福音伝道が進展しました。神の御言葉が夫々の国民に豊かに内在して、神の御心に適う礼拝があちこちで行われています。

 

 9節 聖書解釈の規準

 

 「聖書解釈の無謬の規準は、聖書自身である」この言葉は、信仰の類比(アナロジー)と呼ばれる原理であり、二つの解釈があります。一つ目は、聖書は著者、内容と文体、時と場所の多様性があるが、本質的には全く一体のものであり66巻の中では、相互に矛盾する事無く、かつ補い合い、他の箇所を持って説明できるほどの内容を持っている。二つ目は、聖書は神の御言葉であるから、他の文学作品と同じ仕方で解釈できるとは限らず、聖書は神を抜きにしては読むことが出来ません。そして聖書は、①比喩的(道徳的教え) ②寓意的(霊的教え) ③類比的(教理的) ④字義的(文字通り) に書かれています。 例えば、仮に字義的に解釈したとして「地の四方の果て」と言う言葉を持って、地球は平らであると言えるでありましょうか。マタイ11:14「実は、彼は現れるはずのエリヤである」 これはルカ1:17で「彼はエリヤの霊と力で主に先立ち」と説明されています。このように御言葉の意味について疑問が生じる時にも、他の箇所において理解できるように説明されているのであります。

 

  10節 至高の審判者

聖書の権威が、他の如何なるものをも凌駕する事が主張されています。「全ての会議、古代の著者達の意見、人々の教義・個人の精神」は、教会の歴史の中で起こった異端との論争の中での教会会議、教会教父達の著作や意見、また熱狂的な神秘主義を唱える人々、直接啓示が与えられたと主張する人々、或いは教会を否定する人々等を指しています。これらの事も。聖書の教えに照らして良く調べると多くの誤りがありました。これらを解釈し適用されるのは、正に聖霊によってであり、聖霊こそが最終の判断をされる絶対的な権威であります。

 

 

  第二章   神について、また聖三位一体について

 

「ウェストミンスター信仰告白」

      神について、また聖三位一体について

ここでは神とはどんなお方であるか、そして一人にして三つの位格を持たれるとはどのような事であるかを説明している。

 

一節   神は唯一の霊である。

神は多くの属性を持たれ(知、聖、義、善、愛、憐れみ)、永遠的、不変的、絶対的な生ける唯一の真の霊である。ヨハネ4:24  この告白では、神存在の証明をしていないことは賢明である。それは人間的な思いで神を捉える事は出来ないからである。有限なる人間がどうして無限なる神を証明できるであろうか。17世紀のパスカルが、その“パンセ”の中で次の様に述べているのは大変教訓的である。「このような議論は、我々を真の神に導かずに、ただ哲学者の神に導くだけである」と。前章でも言っているが、神存在の証明は出来ないが、その存在は疑いの無いほど確かであり、この宇宙の被客体でなく主体であるので、科学的な方法によって明らかにされるものではない。ヘブル11:6

「神に近付く者は、神が存在しておられる事、また神はご自分を求める者達に報いて下さる方である事を、信じていなければならないからです」詩篇14:1「神を知らぬ者は心に言う。神などいないと」 聖書では最終的にはイエスキリストを知る事無しには、神を知る事は出来ないし、彼を通してしか神を見る事は出来ないのである。ヨハネ6:46 不信仰者が考える神はその名も知らず、人間的の想念によって作り出した神なる物であり、自ら頭のチリを払う事も出来ない偶像である。そこには救済も、愛も、永遠の命も、不変の真理も無い。

 ジュネーブ信仰問答問1でも、「人生の主な目的は、神を知る事である」と答えており、人間の思想と生活の一切の中心は、「ただ一人の、生ける真の神」であり、精神を尽くし、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛し、一切を神の栄光を讃えるキリスト教有神的人生観、世界観こそが聖書が教える人生そのものであります。1コリント10:31 このように神を知り、神と出会い、礼拝を通して神を告白して行き、神の聖定と御業を通して正しく神を知るのであります。カルヴァンは、「我々の精神は、神に礼拝を奉げるのでなければ、神を理解する事は出来ない」と言っており安易な神認識を戒めております。

「論語読みの論語知らず」と言う言葉がありますが、私達は日常の生活の中で、格言的な聖句を自分に都合よくつなぎ合わせ、神を知った積りになっている事があります。しかし、それでは聖書が教えているイエスキリストを理解する事は出来ません。イエスキリストに於いて、イエスキリストを通して神に至るのでなければ、本当の神認識にならないのであります。 ヨハネ17:3

「偏在」は、広大無辺と言う意味であり広がりを示しています。つまり神は、何処にでも居られる事を表しています。そして、これは空間的存在を意味するだけでは無く、それを超越し同時に被造物の中にも内在されてる事を示します。

そして神は、時空(時と空間)を越え、且つご自分の民に対して成される聖定の御業を行う為に、如何なる変化にも服されないで一貫とした存在であります。

「愛と、恵みと、憐れみと、寛容に満ち、善、真実、不義や違反や、罪を赦す事において豊かで、熱心に神を求める者達に報いるお方である」 この神は、不信仰者に対して、「公正で恐ろしく」とありますが、これは神が信じない者に対してその交わりを絶たれ、神の子としての受入れをされない事を強調する語句であり、私達が想念で描く地獄に陥る事を示すものではありません。地獄の様相は、実は人間の心の内にあるのです。言い換えれば、この世は、既にイエスキリストが来られた時から神の御国が開始しており神はこの世界のあらゆる細部について、また人間の心の全てをご存知であり、完全で完璧な知識を有して居られるのであります。未だ来ていない御国の完成に向かって、私達は聖書に展開されているこの神の御国について、また神についてこれからも学んで行こうではありませんか。

 

二節  神と被造物の関係

 

この節では、第三章以下の神と被造物との関係を全体的・包括的に扱っています。神はご自身にとって絶対的な自己充足性を持って居られること先ず表明しています。神はご自身の栄光を表す為に世界を創造されたのですから、被造物が神に奉げる栄光は神に何か新しいものを加えるのではなく、神が本来所有しておられる絶対性・卓越性をあるがままに認める事に他なりません。神が唯一の主権を持っておられる事は、神が全くすべてをご自身の中で持って居られる事を指します。「神の知識は、無限・無謬で、被造物に依存しないので、何一つとして、神に偶然や不確かなものがない」神は人間の様に、データーベースをなんら必要とされず、神はご自身ですべての知恵と知識を所有される。そして、それを人間の救済の為に適用されるのであります。ローマ8:20「神は前もって知っておられた者達を、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」神はこの目的達成の為に、御自身の知恵を用いられるのであります。そして全知・全能であられるので、意志せられた事は完全に果たされ、その御力は、御心のままであり、何等矛盾するものでもありません。故に、「どのような礼拝、奉仕、服従も、当然払われなければならない」 

この事に心からアーメンと言えるのである。

 

  聖三位一体

この三位一体と言う言葉は聖書の中にありません。「父。子。聖霊」と言う言葉で表現され、永遠の唯一なる本質の中に、父、子、聖霊の人格的交わりがある事を告知しています。これが俄然問題になって来ましたのが、AD250年頃で、後に教皇の座を追われたノヴァステイアヌスが始めて三位一体論を著しました。その内容は、① 父は霊的永遠的な創造者であり、旧約時代は族長や預言者を通して自らを啓示され、新約時代は御子を通して啓示され、創造と和解は両者が一体となって成された。 ② 子は父と同質父より永遠に生まれた方、しかも乙女マリヤより聖霊において人間の肉をとられ、十字架の死において、三日目に甦り天に上られた。 ③ 聖霊は被造者でなく父と子を通して送られる真理の霊である。父の霊と子の霊は切り離す事は出来ない。このように今日の三位一体論の原形を成していたのであります。これに対して対立するモナルキア主義が起こり、単一神論が唱えられたました。一つは、勢力的モナルキア主義 二つは、様態論的モナルキア主義であり、前者は、イエスは単なる人であり、ヨハネから洗礼を受けた時に神の力(霊)を受けて神の子となった。本質は神でないが、神の力を受けたので神の養子となった。そして、復活後に神となったと言うものでありました。後者は、父がキリストの体をとり、この地上に来られたのであって、キリストの受難は神の受難であったとし(天父受難説)、そして神は三つの役割を夫々演じる一人の神であると言った。これらは何れもニケア会議(AD325)で否定され、三位一体論とロゴスキリスト論が正統信仰として確立されたのであります。然しながら、同時にアリウス主義との論争が続きAD375年の二ケアコンスタンテイヌス信条で、最終的な決定が成されたのである。この主義は、神性内部の区別を排除し、哲学的に神を解釈し、子は永遠的でなく、世が造られる前のある時点で生まれたとし、「子が存在しない時があった」と主張したのである。従って、子は神と被造物との中間に位置するものであるとした。そしてニケア会議でアリウスは「父と子は似た性質」と言い、アタナシウスは、「父と子は同質」であると主張し、ニケヤ会議はこの

「同質」を採択したのであるが、結局AD451年のカルゲドン会議で、三位一体ニ性一人格の教理が確定しました。このように人間の理性を遥かに超えているこの教理は、人間の救いに深く関わる重要な教理なので、これを信じ理解する事は、信仰の確信を左右する重要なものであります。

神は三つであり一つであるとするのは矛盾ではないかと多くの人は考えるでしょう、しかし信仰者はこれを真理であると信じています。一つの本質が三つの位格として存在する事は、ただ神にのみ固有な事であり他に見る事は出来ません。そしてこれを語る時に、二つの視点から考えなければなりません。一つは本体論的三位一体(内在論的)、二つは経綸的三位一体です。前者は、神ご自身における存在秩序を表し、父は何ものからも生まれず、子は父より出で、聖霊は父と子から出る。そして互いに従属するもの(従属説)では無いとします。後者は、世界と歴史の上で働かれる神の役割を表します。つまり創造と摂理の御業は神に、贖いの御業は子に、救いの御業の適用と完成は聖霊において果たされ、これら全てが三位一体なる神のお働きに帰せられるのであります。

三位一体の神の告白は、信仰の核心でありこれ無しには、正しい神観、創造、贖い、救いについて純粋に信仰する事は出来ません。信仰の最も簡潔な表現である使徒信条は、三位一体なる神を告白しています。同時に、二性一人格なるキリストの神性の告白はキリスト教教理の骨格であります。 「我等全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我等の主イエスキリストを信ず。主は聖霊により処女マリヤより生まれ、ポンテオピラトの下に十字架につけられ、葬られ、三日目に死人の中より甦り、天に上り、父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死にたる者を審きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる教会、罪の赦し、身体の甦りを信ず。アーメン」 (2世紀の古ローマ信条)

この信条は当時洗礼式の告白として用いられておりましたが、3世紀になってこれを基として使徒信条が作成されました。ですから、私達の信仰告白としての使徒信条は信徒において記憶され、心から「真なり! アーメン」と告白されねばなりません。

 

 

 

 第三章  神の永遠の聖定について

 

 序.

神の永遠の聖定(創造と摂理)・予定の教理は、改革派教会では聖書自ら教え

ているこの教理を明確にし、心から告白しています。他教派では聖書に明瞭 

に証されている聖定・予定の教理を、信徒がつまずく惧れがあるからと明確

に教えません。それは人間的な思弁に陥り易いからであります。

第1節~2節 聖定論一般、第3節~7節 予定論、第8節 予定の教理の

正しい扱い方 そして、御使と人間の救いと滅びに関する特別な聖定を予定

論と呼んでいます。

 

1節  定義

神の決定・決意は、神の永遠の御計画、或いは目的とほぼ同じ意味であります。聖定と言う語は聖書の中に出てきません。そして、世界の歴史と人々の人の人生に対する全包括的な、神の絶対主権を最も明瞭に表現しており、世界の存在を神にしっかりと基礎づける事によって理神論と汎神論を退け、有神論にしっかりと立っているのであります。神はこの世界を完全に支配されておられるので、「起こり来る事は何事であれ」責任を持たれています。人間に関して神は、「罪の作者」ではありません。「被造物の意志に暴力が加えられる事無く」は、人は神様のロボットあるいは自動機械の歯車でなく、自分の行為に関して自由意志と責任を負っており、神の強制力で動くものではありません。「第二原因の自由や偶然性」としての自由は、神の主権的支配によって消し去られるものではなく、人間は意志の自由を保持し、悪を意志する自由さえ持っているのであります。この様に人間の意志は、常に悪に傾いており自分の思い通りの方向を選んでいます。神は、ご自分の民をその罪ゆえに罰する為に、多くの侵略者を起こされて計画を実行されました。例えば、アッシリアの王は自分がその計画の為に用いられて居ることは知りません。ただイスラエルを攻撃し財宝を手に入れれば、目的達成です。しかし、最後に神はその傲慢なアッシリアの王を、罰すると言われています。イザヤ10:12 アッシリア王の罪を通して神はイスラエルの民の悔い改めを求めておられたのです。

 

2節  聖定と予知の関係

ここはアルミニウス主義(AD1618年ドルト会議で弾劾された)に対して記載されました。アルミニウスは、神はだれが福音を信じるようになり、誰がそうでないかを、神はあらかじめ知っておられ、そしてこの先立つ知識の光で神は、次にこの信じる意向を持つであろう人を選んだと主張したのであります。改革派神学者は、この教えに反対しました。もしそうであれば、神はある人達が他の人より優れているので彼等を選んだ事になってしまい、ローマ5:6「実にキリストは、私達がまだ弱かった頃、定められた時に、不信心な者の為に死んで下さった」、この教えに反すると主張したのであります。ですから聖定は予知に基づくものでは無いのであります。神が予定されたから人は信じる様になったのであり、その事で神は人が将来信じる者になる事を予知されたのであります。聖定が予知に基づくとすれば、予定そのものは条件的なものになってしまうのであります。神の選びは正に無条件的でありました。

アモス3:2「地上の全部族の中から私が選んだのはお前達だけだ。それ故、私はお前達を全ての罪故に罰する」ここでの“選び”は、イスラエルの民とは特別の関係に入った事で、それは契約の関係を表します。即ち一方がその契約を破れば、懲罰を下されるのは当然でありました。しかし、神と選びの民とは愛の絆で結ばれていたのでありますので、必ず救いに至る様に予定されていたのであります。

 この様に聖定と予定と、予知の関係は神が被造物の行動を予知したから聖定されたのではなく、神の主権的意志によって行われたのであります。又信仰は予定の結果であるから、信仰を予知し、予見して予定したのではありません。神は御自身の絶対で、不変で、最も正しい御旨の計画に従いご自身の栄光の為に聖定されました。そしてこの選びは、同時にキリストによる選びでもあり契約の仲保者として、贖罪の御業を果たして下さいました。このキリストに結合する事が選びの民となる事であり、キリスト抜きの救いはありません。神が選ぶ時には、キリストも選ぶ神であります。即ち私達は選びの確信を不確かな己の善行や、神秘的体験等によって確認するのではなく、キリストによって選ばれ、キリストに結合していると確認する事で信仰の確信を得る事ができるのであります。

 

3節  二重予定説

申命記7:6~15までに“神の宝の民”として神が選ばれた事が証されて

います。この様に、予定によって ① 永遠の命に定められた人々 ② 永遠の死に定められた人々、がいます。神がイスラエルを選んだのは、純粋な憐れみから来るところの恵みの行為でありました。神はこの民を選んだのは、「あなた達は、他のどの民よりも貧弱であった」(7節)からであり、決して何かが特出していたからでは無かったのであります。神は他の国民と区別して、救いの契約を結ばれました。然しながら、この民は誤解をして“選民”としての意識の中で、傲慢になり、高慢になって契約を忘れ、神に反抗し、歴史の中で何回も滅びを経験するのでありました。しかし、神はその都度“残りの者”を選ばれ、命に予定されている民を憐れみにおいて救済されたのであります。この選びは全くの神の自由な恵みと愛による、無条件的なものでありました。

エフェソ1:3~14に証言されています様に、神はイエスキリストにおいて信仰者を永遠の命に定められました。そして全て救われた者が、キリストにおいて一つとなる為に体なる教会を与えて下さいました。そして聖霊においてこの神の国なる教会の上に、救いの証印をお与えになったのであります。ここに選ばれる者、永遠の滅びに至る者の相違が明確になるのであります。

またローマ9:18に証言されています様に、遺棄は神が頑なにしたいと思う者を救いから見過ごされ、神の義の現れる為に信仰しない者を罰する様に決定さられた神の予定であります。しかし、この予定と遺棄の教理は、選びを強調するものであり信仰者の選びの確信をより強くする為に告白されました。これを単なる人間的思弁において取り扱ってはなりません。そしてこの予定と言う言葉は永遠の命に選ばれた者にだけ使われるのであって、選びは個別的であります。一方では、選びはキリストによる選びでありますから、ばらばらの個人を指すのではなく、旧約時代においては「一つの国民」であり、新約時代においては「イエスキリストの体なる教会」を指しているとする解釈もありますが、改革派では個別的救済を主張しています。

 

4節  予定の個別性と不変性

前節で述べた様に、選びは個別的で不変的であります。神の選びは途中で

の変更が無いと言う事を表現しています。遺棄に定められた者が、選びの民にされたりすると言う変化は無いのであります。この所が、多くの誤解を与えて来ました。長い人生を神を知らないで歩んでいた者が、信仰者に変化した時に“選ばれた”と感じるのが普通ですが、それはその様にあらかじめ予定されていたから、時を経て(時が満ちて)神に立ち帰る事になったのであり、それまでの経過は神から与えられた所の試練の時であったのであります。これを運命的に理解する事は誤りであります。「救いに予定されていた」からに他ならないからであります。また「彼等の数」とありますが、これは人間の思弁では理解できません。神のみが定められている事でありますから、信仰者は救いを確信してその慰めと希望の中に生きれば良いのであります。ヨハネ14:2~3「私の父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなた方の為に場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなた方の為に場所を用意したら、戻って来て、あなた方を私のもとに迎える」 とイエス様は約束されています。これ程にイエスキリストは私達を愛し選んで下さっていますので、彼に依り頼んで教会生活を送りたいものです。

 

5節  恩寵による選び

信仰者(命に予定されている者)が選ばれたのは神の全くの「自由な恵みと

愛」からであり、人間的な功績や行いによるものではありません。私達の救いの一切は神に帰され、その栄光と恵みの中にある事を心から讃美しなければなりません。改革派の二重予定説の真の目的は、この神の自由な恵みと愛の勝利を讃える讃美・告白なのであります。カルヴァンは、「キリストの選び」を、自分自身の救いを見ることの出来る「鏡」と呼びました。現在信仰者は、聖霊によって有効に救いに招かれていますので、最早自分が救われているか否かと、思い煩う必要が全く無いのであります。イエスキリストにつながっている私達は、永遠の選びの中に既にいるのであり、この恵みに逆らう事などは出来ないのであります。

 

6節  予定の手段

神は選びの民を定められているだけでなく、それに至る全ての手段をも前も

って定められておられ、第一にキリストによって贖われ、第二に聖霊によって有効に招かれ、第三に義とされ子とされ聖とされ、最終の救いまで守られる事を告白しています。その後の、「他のだれも」以下がAD1618年のドルト会議で大激論になった項目であります。ここを「永遠の命への予定」「永遠の死への予定」として、対置概念として論争したからであります。しかし、選びと遺棄を対等に扱う事は、誤りであると決議しました。それは、神が不信と罪の作者ではなく、人間が罪を犯すと予知して聖定されたからでは無いからであります。ルター派は、永遠の命への選びを強調しましたが、改革派はここで告白されていますように、双方予定を主張しました。

 

7節  遺棄について

「被造物に対する主権的御力の栄光の為に、見過ごし、正義を讃美させる為

に、彼等を恥辱と怒りに定められる」と、告白されています。この看過と言う語は聖書に出て来ませんが、実は“正義を讃美”させる為にという目的が書かれており、とにかく永遠の滅びと恥辱にまかせられる事を神は願っては居られないのです。一時見過ごす事はあっても、悔い改めを持って永遠の命に来る事を待っておられます。それは、罪の責任は人間側にあり、決して神は罪を造られた方では無く、滅びを願って居られるのでも無いのであります。然しながら、永遠に見過ごされる者は神の主権的御力において行われるので、我々が「何故?」と抗弁する事は出来ません。

 

8節  予定の教理の正しい扱い方

「予定というこの高度に神秘な教理」は、原文では「予定は高度の神秘」と

言っています。これは、聖書の中にはこれを説明する文章はないので、人間の理性をもって扱う事無く、「御言葉に啓示された神の御旨」に注意して聞く事を求めています。人間は傲慢で高慢ですから、己は救われているが、他の人は滅びに定められていると、あたかも自分が神になったような文言を吐く事がありますが、あくまでも救いの核心は、「神がイエスキリストにおいて啓示せられた福音を信仰する」事なのであります。そしてこれを受け入れる者は、「神への讃美、崇敬と称賛」をもって、福音に聞き従う事が出来るのであります。私達の救いは、「愛されるのに価しない私達は、愛され、救われている」これを確信する事において達成されるのであります。この教理は、信仰者にとっては“慰めの教え”ですが、不信仰者にとっては“恐れの教え”でもあります。面白い逸話があります。ドルト会議の後に、ジェームズ一世は、「予定論は、真に真理そのものだが、あまりにも深い奥義であるから、学識・経験・信仰の浅い教職は、これを説教する事を禁ずる」という布告を出したそうです。

 

 

   第四章   創造について

 

序.

三位一体なる神の聖定は創造と摂理の御業によって、歴史の内に実現する。つまり神の歴史的行為を二つに分けると、創造と摂理である。そして、ご自身の永遠の御力により、目に見えるもの見えないもの全てを、ご自身の栄光の為に、6日間で無からお造りになり、その全てのものはなはだ良く造られていたのである。17世紀になると理神論・汎神論が盛んになり、その上神の創造を否定する進化論が唱えられるようになって行った。この進化論を信奉する者は、進化論の上に科学的と言う衣をまとわせ、実証されていない仮説を、あたかも宗教者が理屈抜きの強制力をもって人を信仰に到らせる以上の感化を与えてしまった。然し、現世になって遺伝子生物学の進展にともなって、その誤りが指摘されるようになって行った。

 

1節 

この創造の教理は、万物の歴史を科学的な目で見るのではなく、信仰の目で見て確信する事を求めているのであり、人間が存在していない時の出来事であるから、如何にこの小さな理性を働かしてもそれを極める事は出来ない。ローマカトリック教会では、保守主義の行き過ぎて神が保ち統治されている自然界の法則から導き出された科学的発見をも、異端審判にかける有様であった。

17世紀になると英国の王立協会が設立され、科学発展の端緒となった。その10名の設立者の内、7名がピューリタンであり彼等はその科学的研究の支持を引き出せる聖書の研究に打ち込んでいた。絶対的主権を持たれる神と、神の法則に統治されている世界の統一性という聖書的な視点が、その後の科学の発展をうながして行ったのである。その発展の過程の中で当然教会の代弁者と科学者と称する人々の間に対立と論争が起きたが、本来科学が解明する法則や発見は本来からあったものを、即ち神が保持・統治される所のものを人間が追認するに過ぎなかったのである。然しながら、科学者達が神の造作物の秘密解明、宝探をした成果は人間の生活向上に大いに貢献した事は事実である。究極的に神の御言葉の真理と、科学的な諸真理との間に何の対立も矛盾も存在しないが、この人間の不信の罪がなさせる業は、その中にあえて対立を持ち込んだのである。

創造は三位一体なる神によって無から創造され、新約聖書では創造者としての御子の業が記されている。キリストは始めから神と共にあり、自らがロゴス(神の言)であり、全て万物はキリストによって成ったのである。彼に依らず成ったものは何一つ無かったのである。 ヨハネ1:1~3、コロサイ1:16~17

神は造られたもの全てが、「見よ、それは極めてよかった」と言われるように

ご自身が満足出来るものであった。ギリシャ哲学の様に人間を二元論的に考える事は誤りである。つまり精神は善であり肉体は悪であるとする考え方である。しかし、聖書によれば堕落以前は人間は神の似姿をとり、全く善であった。

イエスキリストの受肉と復活において、罪に堕ちた人間はその全てが贖われ、本来の秩序を回復し、再臨の時に創造に於ける神の目的が完成され、人間は極めてよい姿に戻る事が出来るのである。

 パウロ神学でも、イエスキリストが全宇宙の焦点であり、宇宙は彼を通して存在し、彼の為に存在していると教えている。宇宙の万物は彼の為に存在し、万物は彼の為に奉仕し、彼の御心を達成する為に用いられるのである。この関係において全ての学問はその意義を見出さねばならないし、神中心の観点から全てのものは理解されねばならない。

 

2節  人間の創造

被造物としての人間は、第一に男と女に造られ、神の像に造られ聖なる者で

あった。 第二に心の中に神の律法と、それを果たす力を持っていた。第三に人間に意志の自由を与えられた、このような特徴を持つものであった。この様に、人間の特徴を客観的に捉える事の出来る人は稀である。多くの者は、何故自分は今ここに居るのか、人生の目的とは、死んだらどうなるのか、普段は自分ほどの知恵者は居ないと誇っている者でも、この提議がなされれば即座に答える事は出来ないのである。元々神から切り離す事の出来ない人間が、己の高慢さによって自分の力で、その意志で切り離したと思っても、自分の知恵ではどうにもならない事を知らされ、人間についての正しい知識は、神の御言葉からのみ知り得る事を分からせられるのである。

ここで使われている「男・女」は、包括的なものであって性差を意味していない。神によって造られ、同じ価値を有するもので、互いの存在無しには立ちゆかないものである。この語において人の全人格を表現している。そして神の似姿に造られ、理性ある不死の魂を持っている事を証言している。「知識・義・きよさ」は、神の業の契約を破った時から完全に失われ、神の憐れみの対象となったのである。神への悔い改めの心を回復した者とは言え、これ等をこの地上において完全に回復する事は出来ない。

神は人間の創造に当たっては、機械仕掛けの存在を作ったのではなく、自ら意思して悪しきもの、善きものを選択できる能力を授けられた。この行使に対して神は何の責任も無く、その結果は人間が負うものである。また神は文化命令を与えられて、全ての被造物の管理を人間に委ねられた。しかし、罪に堕ちた人間は、それを己の貪りの為に使用し神が極めてよく造られた自然を破壊するに到り、また人間は己が生きる為に、地を耕し、他の被造物を食する事を許されたが、罪から来る貪欲さで必要以上に命を収奪してきた。我々は(信仰者)、この神の許しと委託に対して常に目覚め、その管理を主の目に適うようになさねばならない。ここに、創造の教理に対する正しい把握と告白がなされるのである。

 

 第五章   摂理について

 

序.

摂理と言う言葉は、聖書の中に出てこない。しかし、聖書の中にはその内容は、この上なくハッキリと示されている。被造物が存在し、行為し、変化する事の一切は神による摂理であり、神の不変な永遠の予定にそってなされ、神の栄光の為に保持・指導・処理・統治される。創造された世界が存続するのは保持であり、法則に従って運行し、進化し、移動するのは指導・処理・統治等の御業によるものであります。世界と神との現在関係を総称する言葉が摂理であり、有神論的世界観は創造と摂理のうち特に摂理において明らかに明示されているのであります。

 

1節  四つの内容と対象

摂理の対象は、① 全ての被造物 ② 行為 ③ 事物 ④ 大小のもの

そして摂理の内容は、① 保持 ② 指導 ③ 処理 ④ 統治である。

そして聖書には、独立体としての自然界の概念はない。上のもの、表面にある物、そして中にあるもの全てが神の御心と関係を持っている。そしてあらゆる物が、神の知恵と栄光を表している。 詩篇148  マタイ5:45では、全ての者に神の情け深い恵みと愛が反映されて居る事が証されている。そして神は、その世界を目的と目標をもって治めておられ、その統治には限度も、限界も無い。また神の御配慮は真に細やかであり、一羽の雀さえ神の御心がなければ地に落ちることも無い。そして、我々の髪の毛までも、細やかに数えられているのである。 マタイ10:29~31 

 

2節  第一原因と第二原因

神の予知と聖定、これが第一原因となる。あらゆる法則(自然法則)、人間の

自由意志(決断)、機会(偶然)が第二原因となる。神の予知や予定が、時によって、場所によって違って現れるのは、神の深い聖定が神の決められて時と場所に現れるのであって、単に人間的な理由に因るものではない。そしてこれらは、人間の目から見れば、必然的にあるいは偶発的に起こっている様に思えるが、これも神の摂理の御業である。神の御業は真に多様な様相を持って現出するのである。

 

3節  奇跡について

摂理には、第二原因を通してなされる時と、そうでない時がある。そして後

者を奇跡と言う。神は全てに超越者であり、絶対的主権者である。第二原因の行使に際しても全く自由であられる。神がご自身でよしとされる時には、何の手段をも用いず、自由に行動される。今日の信仰者の中で、何か奇跡的な神の御業を自由に扱えると言う者がいる。特に病気の癒しの賜物を与えられるとし、キチット医学的な手当てを必要とする者に対して手をかざし、意味の分からない祈祷をする事において、奇跡を信じるように仕向ける者が後をたたない。そしてこの事が、時には悲惨な悲劇的な結果を生じさせている。この様な者は、神の御手を説明出来ない様な中にのみ矮小化し、真に神のあるべき所から排除してしまう誤りを犯している。この者達は、明らかに聖書に記されている奇跡の記事の読み間違いをなし、神秘的な事柄のみに興味を示し、聖霊の内的照明を受けていない。聖書の奇跡の記事は、人々を驚かせる為、あるいは何かの真理を実証するものでなく、神がご自分の啓示を示される手段として用いられており、イエスキリストにおいても彼の教えの便法であり、そこにおいて隠されている神の御旨の更なる啓示を与えられ、これを“しるし”と呼んでいるのに過ぎないのである。聖書で証されている奇跡は当に、イエスキリストの受肉と復活であり、これ以上の奇跡を我々は期待してはならない。

 

4節  摂理と罪の関係

この4節は摂理論における一番難しい箇所である。カルヴァンのキリスト教綱要18章で「主は、不敬虔な者の心を曲げさせ、主の裁きを執行するように向けさせる。しかも一切の汚れからも離れている。罪もまた神の支配の下にあるが、神の意志は矛盾を持たない。そして悪人を用いて御旨を遂行したもう。その極致としてイエスキリストの十字架がある」 このように罪だけは摂理の外にあると言えないのであり、神は罪をも摂理されているのである。

確かに罪の罪たる性質は神より出た事ではないが、罪によって起きた事の一切は、神の摂理によって成されたのである。ヨブを襲った不幸も、神が配下のサタンを用いて、ヨブの信仰を試され、その期待に見事答えたヨブは失った財産・家族を以前に倍して与えられたのである。また兄弟の罪によって奴隷として売られたヨセフは、神の摂理によりエジプトの宰相としてファラオに次ぐ地位と権力を与えられ、飢饉から自分の家族を始め多くの同胞を救ったのである。イエスキリストは直弟子イスカリオテのユダの裏切りおいて、またファリサイ派や律法学者達の悪しき企みがあってこそ十字架での贖いが成就したのであり、これが罪人の救いとなったのである。このように聖書では、罪も義人の不幸もイエスキリストの十字架も、全て神が摂理された事を証している。我々信仰者は、一切は神より出で神に依って成り、神に帰し、一切の物と、行為と、出来事は神の摂理によると告白するのである。そして、罪の摂理を許容的摂理と言い、これは単なる許容でなく神の摂理であるから、一般的摂理と違い、その道徳的責任は罪を犯した人間の側にある。特別啓示たる聖書は、被造物の罪を通して、選びの民にその御旨を啓示しており神の目的達成の終局を示されているのである。

 

 

5節  信者と摂理の関係

信者は神の摂理において色々な誘惑や試練に遭った時に、自分の肉の弱さの

為に負けて、罪に陥ってしまう事がある。その理由は、神が信仰者を、懲らしめる為、腐敗の力を教える為、また神によりいっそう依り頼む為、将来の罪を警戒する為、その他の目的の為である。神は確かに憐れみ深い神であるが、信者がこの世の誘惑に出会う事を許される。そしてしばらくの間罪の中に留まる事を良しとされる。歴代誌下32:31「神は、ヒゼキヤを試み、その心にある事を知り尽くす為に、彼を捨て置かれた」 こうして神は、ご自分の民を試みられるのである。愛と正義の神が、創造し摂理されているこの世界に何故多くの苦しみや、艱難や、悲惨や、戦争があるのであろうか。その悲劇に直面した時には、「神なぞいない」と絶叫してしまう事もある。ヨブ記を読んでも、あれだけの義人が、神の手下のサタンによって家族もろとも全資産を失ってしまうが、その苦難を信仰と神への信頼でヨブは乗り切り、最後には以前にも増しての2倍以上の財産を神から戻されたのである。信仰は時には神の御意志と矛盾していると考えてしまう事もあるが、しかし最終的な答は神が用意していて下さるとの神の知恵と力と愛に信頼する事こそが、信仰なのである。これはイエスキリストが十字架で表された信じ難いほどの愛を受け入れる事で、確信に到るのである。ローマ8:32「私達全ての為に、その御子さえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒に全てのものを私達に賜らないはずがありましょうか」 35節「だれがキリストの愛から私達を引き離す事が出来ましょう。艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か」 2コリント11:16~33 参照して下さい。

このように信者が神の摂理の中にいると知る事の出来るのは、ひとえに信仰の行為である。有名な話であるが、ドイツ・ケルンのユダヤ人「強制収容所」の壁にこのような落書きがあったそうである。「私は太陽を信じる。それが照り輝いていない時も。私は愛を信じる。それが感じられ無い時も。私は神を信じる。彼が沈黙なさっている時も」 

信仰告白は、困難な時にこそ、へり下り、謙遜、忍耐、希望を持つことを教えてくれています。人生は霊的成長への学校であり、神は私達に御自分の子として教育・訓練をして下さっているのであります。 フィリピ4:11~13

「私は自分の置かれた境遇に満足する事を習い覚えたのです。貧しく暮らす術も、豊かに暮らす術も知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。私を強めて下さる方の御蔭で、私には全てが可能です」

 

6節  悪人と摂理の関係

信者でない人も神の摂理から独立している分けではない。その関係は、神が

不信者に霊的恵みを賜らないだけでなく、もし少しでも賜物が残っていればそれさえも取り上げてしまうと言う事である。そして、神は不信者をより一層、霊的に盲目とされ、頑な者とされてしまうのである。

 霊的な賜物が与えられていれば、その理解力が明るくされ信仰に到る事

  が出来るであろう恵みを神は控えて与えない。

 既に与えらていた恵みの賜物を取り上げられてしまうので、前よりも最

と罪の機会にさらされる様になる。

 通常であれば聞いて心を和らげる手段である神の言葉を聞いても、イエスキリストを受け入れる事が出来ず、その心は頑なになり、罪を犯し続ける。そして、肉の欲、誘惑、サタンの力に惑わされ引き込まれて行く。

 

7節  一般摂理と特別摂理

神の保持と統治による摂理は、全ての被造物に及ぶ。神を信じない人にも一

般的に広く及ぶが、特に神を信じる者には特別な摂理として、また特別な仕方で及ぶ。ローマ8:28「神を愛する者達、つまりご計画に従って召された者達には、万事が益となるように共に働くと言う事を私達は知っています」この様に、神を愛する者達が集まっている教会にも特別摂理は及んでいるのであります。W-告白1:8 「……神の独特な配慮と摂理によって……」これが特別摂理であり、聖書写本と教会が守られてきた事を告白しています。特に、キリスト教では、聖書と教会がなければキリストによる救いは分からなくなりますが、そうならないように、神は特別な摂理によってこれを守られ保護されて来ました。またこれからも保持・統治されて行かれます。この事が、信仰者にとって慰め、励まし、喜び、力、勇気、忍耐、希望となって、この罪ある社会で生きる事が出来るのであります。

 

 

 第六章 人間の堕落と罪、およびその罰について

 

序.

この章では、人間の堕落と罪そしてその罰について告白している。聖書では、明確に罪は神に対する反逆であるとしており、小教理問答14では「罪とは、神の律法への一致に少しでも欠ける事、或いは神の律法に背く事です」と定義されています。罪の起源は聖書には明示が無いが、神の創作でない事は事実である。罪が始祖アダムの心の中に、邪悪で賢い蛇の誘惑において入り込んだことは明記されている。

 

1節 始祖の罪が何故生じたか

罪のそのものの起源は聖書の中に書かれていない。天より堕落した被造物で

ある天使が、蛇(サタン:黙示録12:9)の姿をとり始祖アダムを誘惑し神との契約を破った事により、罪が入り込んだのである。こうして人は原罪を持つ者となり、神との交わりが絶たれたのである。

 神の聖定以外に、何事も何人によっても発生しない。

 聖定の目的は、すべて神の栄光の為であって、人の利益や神の恥の為では無い。

 罪に関する聖定は、とくに許容であって強制や黙認ではない。事後承認でもない。許容は、神の意志が基でありながら倫理的には、人間側の責任が問われるのである。

 

 2節 全的堕落

この語の意味する所は、罪の程度を言っているのではなく、罪の広がりを指すものである。従って罪は、一部分に限定されているものでなく、全人に影響を及ぼす事である。カトリックでは、人間は全面的に堕落している事は無く、良き点も残っているとする。人間はアダムにおいて罪を犯した時に原義という賜物を失ったが、他の点では善なる姿はのこっていると主張した。しかし、改革派では、体の隅々まで汚れ、腐敗し、全面的な救いを必要とするものになったと主張した。その救いも、神からの全くの恵みによるものである事を明確にしたのである。  ローマ5:15~16

 

3節 アダムの罪の転嫁

アダムの罪の結果は彼自身に限定されず、通常の出生によって生まれた子孫にその罪は転嫁され伝播して行ったのである。その罪の結果は、罪責(現行罪)と汚れである。通常の出生でない者は、この場合イエスキリストを指す。

ローマ5:12  1コリント15:45~49で言われているように、アダムによって全ての人に有罪宣告と死がもたらされたが、一人の人イエスキリストにおいて全ての彼を信じる人に、義と命がもたらされる事となった。

 

4節 原罪と現行罪の関係

罪責は単に外的な罪を意味しているだけでなく、原罪から起こってくる全ての悪の思考と意志をも表す。原罪は一つであるが、罪責は無数にある。高慢、高ぶり、嫉妬、憎しみ、肉欲、淫行等々感覚的な、また生活上で生起する詐欺、窃盗、傷害、殺人、性的犯罪等々多岐にわたる。またこれらの罪責を容認している事も同罪である。(ローマ1:32) 神の目からは、特に許されない罪がある。それは聖霊を冒涜する事である。キリストにおける神の恩恵の働きは、正に聖霊によるのだが、これを悪意ある解釈を施して、聖霊の内的照明や真理の確信を否定する事である、そして悔い改めを阻止し、良心を麻痺させ、頑なな心を解かず、神の救いの恵みを嘲笑し、イエスキリストを受け入れない、この様な態度をとる者には永遠の滅びが用意されているのである。

 

5節 罪の性質の残存

この節ではイエスキリストの救いにおいて義とせられると、その時罪の力が

完全に取り除かれていると誤解する信者の為に書れている。この世での信仰生活を熱心に追及する者の中には、この世で完全聖化に到ると信じる者がある。これは、誤りである。信仰者は、キリストの贖いによってその罪性が赦されているのであって、キリストが自分の裁きの身代わりとなって下さったから、今新しい衣を着る事で聖霊が内住され、従順、聖性、愛の成長、それらの発展過程にあるのである。しかし、本性の腐敗はこの世にある限り、無くなる事はなく、信者の中に残っているのである。これは、減少する事はあっても無くなる事はない。

 

6節 罪に対する罰

この節は、2節の補完である。この世の生活では、信仰者と言えども、思い、

行い、言葉で罪を犯し続けている。これは単に罪を行う(DO)事の問題でなく、もっと深い所に罪がある(BE)人間の本性の問題である。マルコ7:21「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである」と明白に述べらています。つまり、つみ深い行動を引き起こすのは、我々の本性たる心なのであります。

こうした罪に対する神の怒りと呪いは次の三つの仕方で現れます。

 神の怒りは、この社会の中で法律の下に為政者によって遂行される。

ローマ13:4 参照

 神の怒りは、罪が個人にもたらす結果を通して働く。実際生活の中で、

どの罪もそれ相応の結果をもたらし、悲惨を招く。信仰者にも、不信仰

者と同じ艱難と苦難が起こるが、キリスト者はその懲らしめの中から、

聖性の進展と共に神の祝福を受け取れる約束があり、大いなる慰めを頂いている。これが大きな違いである。

 神の怒りは、その最後の審判の日に究極的・最終的に現される。ローマ

  2:5 参照 悪が勝利する事無く全く滅びる他無い事は、神の怒り

  がその時に全て注ぎ出されるからである。

 

罪の責任はそれを選んだ人間の側にあり、罪は神に対しても、世界に対しても、自分自身に対しても、その影響と結果をもたらしている。アダムの罪において、全ての人に転化、伝播し、遺伝している。行為のみが罪でなく、人間の本性が罪であり、罪責・罰に値するのであるが、キリストの贖罪と聖霊の御業により、神の救いが約束されている。聖書は明白に、十分に、明瞭にこの事を証言されている。

 

 

 第七章 人間との神の契約について

 

序.

聖書には契約と言う言葉が約300以上出てくる。そして神と人間との契約と言う概念はキリスト教の特色である。他にこの様な宗教があろうか。そして、神学の世界では、改革派イコール契約神学に立つ教派とも言われている。この契約神学と言うのは、16世紀チューリッヒのブーリンガーが幼児洗礼を、基礎づける為に最初に神と民の契約に基づくと言ったのがその始めであった。

創世記17:9~11 その後、オランダのコッケウスが業の契約・恵みの契約という概念を用いた。こうして1615年のアイルランド信条において告白され、それがウェストミンスター信仰告白に引き継がれたのであります。

復習になりますが、神の像に造られた人間が、食べてはいけないと命じられた神との約束を破り、霊的に死ぬ者となりました。そして、この業の契約・命の契約は人間側が破り、原罪が全人類に転嫁され罪責と腐敗の中に生きる者となったのです。しかし、神は憐れみをもってその中から、選民を救う為に恵みの契約を結んでくださり、救い主イエスキリストを仲保者・保証人とならしめ私達を救いに定めて下さったのです。

 

1節 契約関係の事実

ここでは神と人との間に契約関係があると表明されています。この関係は、

創造主と被造物という関係だけでなく、神の側のへり下りにおいて、契約による祝福を約束して下さっていると言っています。そして、被造物たる人間が神に対して服従し、従う義務のある事を教えています。「へだたりは真に大きい」とは、神の偉大さを述べ被造物の小ささを言っています。ルカ17:10では、

服従の義務について言っています。「理性的被造物」は、人間の別の表現であり、神の像を持つ者、理性を持つ者として、己が被造物である事を自覚し、偉大な創造主を崇め、服従する義務があるのであり、そして、神は契約と言う手段で我々を救い、祝福して下さっておられ、その事を喜ぶ者として表現されている。

古代からイスラエル周辺の国々では、契約が日常的に行われており聖書の中でも、サムエル記上18:3、創世記21:27に人間同士の契約が書かれています。しかし、創世記17:4以降では、アブラムと神との契約が出てきますが、この契約は神が主導権をとり、約束をし、条件を定め、契約を守らない時の呪いが添えられているものでありました。「決して出来なかった」は、強い言い方で、人間が神に服従したり、祝福や呪いを受けたり、喜ぶ事の出来るのは、神との単なる自然な関係でなく、恵みの契約関係であり、神のへり下り以外には、有り得なかった事を表現しています。

 

2節 業の契約、命の契約、第一の契約

契約が成立する為には、幾つかの条件項目が必要であり、その内容は契約当事者、条件、内容、違反時の罰則等が定められました。“大王の契約”にその雛形があります。「業の契約:行いの契約」は、木の実を食べないと言う業、行いが条件とされました。それで業の契約と呼ばれたのです。「本人の完全なる服従」を条件として、彼等と子孫達に霊的命が約束されました。これで「命の契約」とも言います。アダムは全人類の代表として「業の契約・第一の契約」を結びましたが、「恵みの契約」はイエスキリストにおいて選ばれた民と結ばれたのであります。

 

3節 恵みの契約、第二の契約

罪の侵入によって神が人間を見限る事はありませんでした。反対に神は憐れ

みに思い「恵みの契約」を結ぶ事を良しとされました。聖書からは、古い契約、新しい契約との表現がありますが、この両者には根本的な統一性があり、選民を救う唯一の方法である、神の純粋な恵みによると教えています。

 業の契約を履行する事に失敗したのは、神に全く責任がなく、ただ人間

側の責任である。

 それでも神は、選民が永遠の命に到れるように「恵みの契約」を、結ん

  で下さった。

 この「恵みの契約」は、仲保者であり救い主であるイエスキリストの贖

  いにおいて履行され、同時に彼に対する信仰が求められている。そして  

  聖霊において、私達は信仰へと導かれるのであります。

永遠の命に定められた者に、イエスキリストへの信仰を起こし、それを継続させて下さる聖霊が与えられています。本来信仰は、自分の力や行いで可能となるものでなく、無償の恵みとしての聖霊が与えられた事において信仰できるようになったのであり、同時に人間側の功績によるものではありませんでした。

 

4節 仲保者イエスキリストの死

恵みの契約実現には、イエスキリストの死が必要でありました。ここで“遺

言”と表示されていますのは、旧約聖書(Old  Testament)、新約聖書(New  Testament)と言いますが、この Testament は、遺言を意味しています。これは、原語のギリシャ語聖書で使われているディアセーケ(遺言)を翻訳したからであります。「恵みの契約」が、イエスキリストの死によって実現し、有効性を持った事は、ヘブル9:15~17で証言されています。そしてこの契約を遺言と表記しました。これは、私の推測ですが“遺言”と書きましたのは、遺言の効力はそれを書いた人が死んでから有効となる訳で、生きている時には出来ないのであります。ですから、永遠の命に到る「恵みの契約」は、イエスキリストが先に死んで下さらなければ、その効力は発生しなかったからです。

 

5節 恵みの契約の旧約時代における執行

「恵みの契約」の執行期間は、時代的区別があります。しかし新旧約時代を

通してそれは一つであり、二つの契約があったのではありません。それが実現して行く為には、歴史の流れの中では夫々の特色がありました。旧約時代、新約時代、また律法時代、福音時代とも言われています。

 旧約時代を律法時代と言われているからと言って、禁止と命令と呪い

の形だけのものがあり、福音が無いとか、逆に新約時代は福音だけで、律法が無いと言うのではありません。イエスキリストも「律法を完成する為に来た」マタイ5:17 と言われています。ですから旧約時代は、“恵みの契約”が律法と言う形で表現され、新約時代は、“恵みの契約”が福音と言う形で表現されたのであります。

 旧約時代は“恵みの契約”は、アダムに対する原福音として、メシア

  誕生の預言が描かれています。創世記3:15 又“預言”として、

  多くの箇所でイエスキリストの登場、受難・苦難が表現されています。

   イザヤ53章

  “犠牲”として描かれている犠牲制度が、イエスキリストの贖いを予

  表しています。“割礼”は、恵みの契約の印であり、新約時代には洗礼

  によって表されました。“過ぎ越しの子羊”は、イエスキリストの血の

  贖いによって果たされた事を表現しています。 1コリント5:7

  “その他の予型と規定”は、旧約時代の王・祭司・預言者は、イエス

  キリストの三職を予表していました。

 これ等の旧約時代における“恵みの契約”は、色々な形で表現され十

分でありました。そして新約時代に教会が形成されるに及びこれらの“恵みの契約”の形は、福音の説教、聖礼典で表現される様になったのであります。

 

6節 恵みの契約の新約時代における執行

旧約時代においては恵みの契約の主体であるイエスキリストは、影でありま

したが、新約時代になってからは本体ご自身が、出現し、十字架の贖いの後に天に上られ、聖霊降臨を通して豊かに私達に働きかけて下さっています。そして、この新約の時代には御言葉の説教、聖礼典という形で“恵みの契約”が、豊かに、明白に現れています。「数が少なく」は、旧約時代の様に儀式という複雑な規定に基づいて行われるのでなく、単純に二つの説教と礼典になりました。この事を指しています。数が少なくなったからと言って、恵みが減じたのでは無く、霊的にはとても豊かになったのであります。そして、選民としてのユダヤの民だけでなく、新約時代には世界中の民が“救いの恵み”を受ける事が出来るようになったのです。霊的効力をもって一層明確に、信仰者に対して“恵みの契約”が、執行されているのであります。

このように新約時代は、イエスキリストに在って私達は、“恵みの契約”に入れられており、この豊かな霊的祝福を心から感謝し、この救いを多くの人々に宣べ伝えていく事が、私達が神に対してなすべき最大の努めなのである。

 

 

 第八章 仲保者キリストについて

 

序.

ウェストミンスター信仰告白の中で、この章は中心的課題である。我等の主イエスキリストの人格と御業、および私達の救いの意義を告白している。神は世界の創造者であり、御子イエスキリストは神とこの世界との間の仲保者である。そして三位一体なる神の第二人格である事は、すでに第二章で学びました。

また第三章で聖定について告白しましたが、ここではその御子が持っておられる被造物との関係について論じています。これを四節に渡って説明しています。

 

1節  神と人間の関係

「仲保者:仲介者」は、「神は、その永遠のご計画で、ご自身の一人子主イエ

スを、…選び…任ずる事をよしとされた」。 ここで明確に仲保者の選びが、世界創造の前の聖なる決定であった事を、私達に明示している。この仲保者と言う言葉は、聖書ではあまり使われていないが、その意味は多くの所で明言されています。ヨハネ3:16、1テモテ2:5 これは人間の罪を贖うのは、その者でなく第三者を身代わりに立てて、その罪を取り扱う事を示しており、同時に人間の救いを成し遂げるキリストの御業全体を包含しています。「預言者・祭司・王」の職務はすべて「メシア:油注がれた者」からその名が由来している事は、小教理の学びから理解されていますので省略致しますが、「預言者:神の代弁者、御心の宣布者」「祭司:礼拝・犠牲を司る者」「王:神の国における王であり主である」この事を覚えていて下さい。同時に、「教会の頭、救い主、世継、審判者」であられます。エフェソ5:21~33では、パウロはキリストと教会の関係を夫婦の関係として捉え、愛し合い離れ難き関係として見ているのであります。そして教会の権威の首座は、頭なるイエスキリストに在る事を告白しています。ローマ8:15~17を読んで頂きますと、「万物の世継:相続人」とイエスキリストは神の相続人(共同の相続人)としての役割があったことが示されています。そして、過去・現在・未来に渡る万物の相続人であります。

神は永遠の昔から一つの民(新約時代からは教会)を御子に与える事を計

画され、またその御子によって「贖われ、召命され、義とせられ、聖とされる」、そして最終的に「栄光を与えられる」といわれています。この事から、私達教会員は、どの様な困難が待ち受けていようとも、教会の頭なるイエスキリストと一つの体を構成しているので、その将来は希望に満ちたものになるのであります。  1コリント12:12~26

 

2節  二性一人格

イエスキリストは、「三位一体の第二人格である…御父と一つの本質・同等…

自ら人間の性質を…しかも罪はなかった」 これを告白する事でイエスキリストがキリスト教信仰の中心である事が理解できるのである。AD451年のカルゲドン会議で、この二性一人格の教理が承認されたのである。曰く、「唯一人のこの御子我等の主イエスキリストの、実に完全に神性をとり完全に人性をとり給う事を、告白するように充分に教えるものである。主は、真に神であり、真に人であり給い、人間の魂と肉をとり、神性によれば御父と同質、人性によれば主は我等と同質……この唯一のキリスト、御子、主、独り子は、二つの性より混ざる事無く、欠ける事無く、分けられる事も無く、離す事も出来ぬお方として認められねばならない。合一によって両性の区別が取り除かれるのでなく、かえって各々の性の特質は救われ、一つの人格一つの本質に共に入り、二つの人格に分かたれ割かれる事無く、唯一人の御子、独り子、言なる神、主イエスキリストである」(カルゲドン信条抜粋)この節では、このカルゲドン信条の復唱・再確認をしており、真の神であり真の人である事を告白しています。

私達は、この御子が真の人性を取られた事が如何に大きな慰めと、愛に満ち

溢れているかが理解出来るのであります。何故なら、罪を犯したのは人間でありながら、人間であってかつ罪無きお方が、私達の罪を贖って下さったからであります。何でも出来る父である神がなさるのなら、それを承認するだけで納得してしまいますが、肉体と魂を持って居られる方が、私達と同じ様に試みに遇われ、そのへり下りと、悲惨な状態で最も卑しい形で十字架に架かられ、罪を贖って下さった姿を思う時に、また「共通的弱さ」全てを経験された事に、心からアーメンと言えるのであります。

「聖霊の力により、処女マリヤの胎に彼女の本質をとって、みごもられた」

ローマカトリック教会は、“マリヤの無原罪の受胎”を主張しましたが、この告白では、明確にその誤りを指摘したのであります。聖書ではマリヤにはイエス以外に子供が居た事が証言されており、マリヤの“永遠の処女性”は有り得ない事でありますが、彼等は、イエスが誕生と生涯において罪が無かった事の証拠としてマリヤにその原因を求めたのであります。しかし、イエスが無罪であったのは、聖霊の臨在とその御業の御蔭であって、マリヤの純潔の御蔭では無く、マリヤ自身は罪を持つ人間であったのであります。

この二性一人格の教理も三位一体の教理と同じ様に、人間の理性・知性で理解できるものではありません。ただ神によって啓示され、信仰によって受け入れられるべき事実であります。 マタイ16:17「あなたにこの事を現したのは、人間でなく、私の天の父である」

 

3節  神との仲保者・保証人であるイエスキリスト

人間社会でも仲介者は、依頼者・相手双方の益の為に行動する。当然主イエ

スは、人間に対しては神の為に、神に対しては人間の為に行動され、そして、二性を持たれてかつ一人格でありますから、その役割を完全に果たす事がお出来になったのであります。その目的達成の為に、「限りなく聖霊をもって聖められまた油注がれる」事によって完全に備えられたのであります。そして三職を果たすように神から任命されたのであります。この事で、上下関係があると認識しがちですが、キリストは神性においては父と同等であり、神の僕としての役割においては、贖いの業により父の御心を遂行する際に、父に対する完全な従順の内に生き給うたのであります。そして、神は御子に一切の権能と裁きを委ねられ、御子にそれを果たす事を命じられたのである。

ヨハネ5:19~30 参照 

8:4~8

 

4節  謙卑の状態

御子はこの職務を「最も快く」引き受けられた。彼が成された事は、強制で

も脅迫に因るものでなく、神からの委託を心から喜んで果たされたのであり、それは全くの愛からであった。本来アダムが果たすべきであった律法の遵守を、積極的に果たされ律法を完全に成就されたのである。(積極的服従)人の体をとる為に天の栄光の中よりこの地上に下られ、栄光の主が僕の役割を引き受けられたのであり、信じ難いほどの謙卑であった。フィリピ2:6~8 謙卑はキリストが人間となられた所で終わったのではなく、彼が私達の贖いの為に御旨を果たされ神が意図された通りの仕方で神の律法を守られたのである。このキリストを理解せず、世のユダヤ人は彼を十字架に付けてしまい、そこにおいて彼は受けた様々の苦難を耐え忍ばれたのである。(消極的服従)これによるキリストの死は、本来律法に従わない私達の身代わりとなって、神の罰を受けられたのであり、その死は私達の救いの為であった。これにより罪人である私達が、神の子としての身分を獲得出来る恩寵を頂いたのである。

高挙の状態は、キリストの復活から始まり神の右に座して居られる事で、天上における御支配として継続するのである。この復活の事実が無かったとしたら、私達の信仰の根拠が無くなり、この世における霊的な命も無意味である。1コリント15:12~24 そして復活せられたキリストの体は、苦しみを受けた体と同じ肉体であり、幽霊のようなものでは無かったのである。このキリストは、世の終わりの時に再び地上に来られ、人々をその所業に従って裁かれるのである。これは、人間に諦めと絶望をもたらすものでなく、この世のあらゆる悲観主義を打破し、真の希望と慰めが再臨の主の上に在る事を、この世に向かって告白する力を、私達にもたらすものである。

 

5節  贖罪について

贖罪は、仲保者としての御業の中核そのものであり、かみの義を満足させる

ものである。そして、完全な従順と自己犠牲によって福音が実現されたのである。キリストは、「御父の義を全く満たされた」とありますが、この神の義は、神が罪を見過ごす事無く、同時に罪人を御子を通して義とせられるお方である事を意味している。そしてイエスキリストが神の義を満たした事で、神は満足せられたのである。「そして和解のみならず、天国の永遠の嗣業を、…買い取られた」と書かれていますが、御父が全ての者に対して和解して下さった事を表し、キリストにおいてこの現世ばかりでなく新しい天と地においても、霊的な命が保証されている事を示しています。信仰者は、打ち消す事の出来ない希望の光によって、遙か彼方に希望を持って見る事が出来るのであり、この永遠の嗣業の受領者は御父がキリストに与えられた者全てである。ヨハネ17:2 これも神の無償で無条件なる選びである。

 

6節  キリストと旧約時代の信者

仲保者キリストの恵みの契約は、すでに旧約時代の民に対しても適用されて

いたとするこの教理は、改革派信仰の特色の一つである。これは恵みの契約の当事者としてキリストは受肉されたのであるが、既に契約的視点からは、旧約時代の選びの民も見えない教会の一員として含まれていたのである。この様に、

キリストの御業は過去・現在・未来に渡ってその効力は継続しているのであり、

創世記3:15で言われている原福音によれば、すでに贖いの御業の効果・徳力・祝福は将来の目に見えるメシアの到来を約束されていたのである。旧約の民は、来るべきメシアの到来を約束・予型・犠牲において示され、罪の赦しと神との交わりを享受していたのである。彼等は、新約時代の民と違ってイエスキリストにおいて示された豊かな福音には触れる事は無かったが、それでもキリストの益に預かっていたのである。

 

7節  二性一人格

この節では、キリスト論において人格と二性についての正しい区別について

再確認をしている。それは、当時のルター派教理について反論を加えたのである。ルター派では神性の諸属性がキリストの人性に伝達されたのでキリストの人性は何処にも偏在可能としたのであり、聖餐論理解に大きな影響を及ぼした。もしそうであるとするなら、その人性は我々のものとは違う人性となってしまう。改革派は、二つの本性の区別を明確にし、且つそれらが決して独立した実体でなく、一人格として働いている事を聖書から論証したのである。二性一人格のキリストは、人格から見れば何処までも三位一体の第二人格であり、御子ロゴスである。人格は受肉によって変化を生じたのでなく、唯一の神である人格が受肉によって、神性と人性とを完全に自己のものとされたのである。つまり神性の持つ一切の属性と共に人性の持つ一切の属性を自分のものとされたのであり、神性と人性の混同や、変化や、分離があったのでは無く、二性は唯一の人格の下に統一されたのである。この統一された一人格なるお方は、今神の右に座して居られ、御言葉と聖霊を通して救いの御業を果たされているのである。

 

8節  贖いの適用

キリストが贖いを、「買い取られた全ての人々」これはイエスキリストを信じ

る全ての人々に対して成されたのであり、万人救済を意味せず制限的贖罪をあらわしている。そしてその民の為に、「執り成し」「御言葉において啓示」「有効に説得」「心を治め」「全ての敵を征服」 する事で、救いの恵みを伝達し、有効に適用されている。これら全ては、聖霊の御業であり恵みである。それは、神の右に座するキリストの聖霊による恩恵である。

 

 

   第九章  自由意思について

 

序.

創造の冠として造られた人間には、他の動物に見ることが出来ない尊さが与えられている。その一つが「自由意志」「意志の自由」と言われるものである。人間の意志は、善あるいは悪を欲するのであるが、どちらを選ぶにしても外部からの強制によるものではなく、自ら欲するのである。

 

1節 自然的自由(本性的自由)

普通理性ある人間なら誰もが自由意志をもっている。しかし、現実には“自分勝手”と理解している者が大多数であろう。しかし、我々が、神と己の救いと言う視点でこれを見るとその意味が全く違うものになるのである。

つまり、「人間は、そんなに罪深い者ではない。自分の意志の力で神に向かう事が出来る」と考えるか、「あまりにも罪深いので、神の恵みのみが人間を自由にし、悔い改めに導いて下さり、神に向かう事が出来る」とするかであります。

 意志は他の者から、あるいは他の外部的な力(自然環境)によって“強制”されたり“決定”されたりするもので無い事を言っています。私達は、神からプログラムされたロボットではありません。“善を意志する者”“悪を意志する者”どちらを選ぶかは、私達の意志決定に委ねられています。

 

2節 エデンの園での状態

最初の人の自由は、エデンの園の中で一つの事を除いては何でも成す事が出

来ました。それは「善であり、神に喜ばれる事を意志した」からであります。この時の人は、神の律法に対して責任をもって従順に従っていたのであります。

しかし、その自由意志を誤った方向に向けてしまったのです。これで罪が、すべの人に入り込む事となりました。ローマ5:12

罪が入り込む以前のアダムの様に、その意志と生活が神の御心に調和していた人はイエスキリストをおいて他にはいません。このイエスキリストの人格の内に、神の姿を見るのであります。ヨハネ12:45

 

3節 失われた自由

人間は、「罪を犯す事」を選んでしまいました。そして自ら罪の奴隷にしてしまい、聖霊の助けによって再び悔い改め、神に立ち帰る事無しには、本来の自由を取り戻す事が出来なくなる程、霊的善に対して無能力となりました。

 

4節 新しい意志

神が、その恵み深い御業により罪人を回心させる時は、神御自身が真の自由

をもたらして下さる。そして「罪に仕える奴隷」から「義に仕える奴隷」となれるので有ります。ローマ6:16~18 そして霊的善を自由に意志し、又行為する事ができるようにされるのです。しかし、残存している腐敗と汚れ故に、この世の生活の中では悪を望む事が頻繁に起こるのであります。

 

5節 栄光の状態での意志

この世で信仰者は、神の御心にしたがって生きる自由を今与えらていますが、

イエスキリストが与えられた二つの掟を完全に守る事は出来ていません。油断していると、何時の間にか罪の虜になっている自分を発見するのであります。「栄光の状態」つまり天の御国でのみ完全な善の状態を回復出来るのであり、そしてそこで完全で永遠なる自由意志を持てることが約束されています。

 

 

   第十章  有効召命について

 

序.

前章から聖霊論が18章まで書かれていますが、13章までは上からの働きについて、14章からは人間側の応答について述べられています。この聖霊論は、イエスキリストが聖霊を通して救いの秩序を構成されて来た事を示し、改革派神学において中心的課題となっています。これを救いの秩序(オルドサルティス)と言います。ローマ8:30 前章で、人間は自由意志が与えられている事、罪人の自由意志は救いを自力で得る力を失っている事が明らかにされたが、「有効召命」は選ばれた人にのみに限られた呼びかけであります。

 

1節 有効召命とは

この選ばれた人のみを神は、「自ら定めてよしとされる時に」 その相応しい

時に呼びかけられるのであります。「御言葉と御霊」は、福音の説教を通して伝えられ、イエスキリストの聖霊の恵みと救いに招かれている事を表現しています。同時にこの説教は福音伝道の柱でありますから、まだ信者でない人々にも伝えられます。そして彼等が、聞く事において聖霊によって心が開かれ、その招きに応じ、悔い改めて信仰に入れるのですが、彼等はこの時自分が選びの中にある事を知らしめられるのであります。 エフェソ2:1~5  「彼等の石の心」以下は、御言葉と御霊によってなされる招きの御業の具体的内容であります。

特に誤った理性や知識に支配されていた頑な心を開き、大きな変化を聖霊は与えて下さる事を示しています。そしてこの聖霊の御業は、神の恵みにおいて自由になされ且つ強制的業ではありません。

 

2節 有効召命の恩恵性

ここでは二つの事が言われています。一つは、招きに対して応答する時には、

それは人間の中にある何等かの条件によるのではなく、神の全くの自由意志において相応しい時になされたのであり、あらかじめ予知されていたものでもない。第二に、神が人の心の内で働かれる恵みの有効性は、霊的な再生において果たされ、そこで恵みを捕らえる事が出来、受け止める事が出来、悔い改めと信仰を起こさせて下さるので、全く確実である。

 

3節 幼くして死ぬ選びの民

この事では、多くの論争があった。信者の子供が福音を理解する年齢に達し

ない内に死んだ時、その救いはあるのか、あるいは信者の幼児は救われているのかとする疑問である。福音を知らず、信仰を告白できない子供は全て救われているとする聖句はないが、神の御意志がどうなのかは推測できない。しかし、聖書の記事では成人の救いと同じく子供の救いを語っている。 マタイ19:14、使徒16:33 またこの信仰告白は、信者である両親に対しても子供が幼くして死んだ時の慰めと救いの確信を持たせる為、励ましの為、としても書かれています。また、信仰を口で告白する事が出来なくても救われている人々が居る事を明らかにしている。それは精神障害、知的障害、認知症、重度の身体障害等の状況に在る方々でありますが、その人々も福音の恵みに預かり御霊は、彼等の心の内に働き救済の御業を果たしておられるのであります。

 

4節 キリストの他に救いなし

私達が、救われた者として多くの特権を与えられているにも拘らず、本当に

キリストの許に行こうとしない人がいる事を教えています。信仰告白しても、そこから迷い出で罪深い生き方をし、信仰を否定した人々は今まで多くいます。

艱難に遭って棄教した人、他の宗教に帰依した人、異端に陥った人、これ等の人々には最早救いはありません。イエスキリストを通して悔い改めする以外に救いは無いからであります。また異宗教を熱心に信心し、敬虔な生活を送ったとしても救われないのであります。2テモテ3:8~9にあります様に、真理に逆らい、精神の腐った信仰の失格者は明確に救いから、放棄されています。

このように救いは、福音と聖霊の恵みによって、しかもイエスキリストに頼る事以外に無い事を告白しています。「引き寄せる」とは、イエスキリストと堅く結合する事を意味しています。

 

 

   第十一章  義認について

 

 

序.

福音を正しく理解するのに「義認」の意味について、はっきりと知らねばならない。ルターは、ローマ1:16~17で「義認の教理」を発見したと言われる如く、この教理は聖書の中心的課題である。「義認」とは、「正しい、無罪であると宣言する」と言う法廷の用語であり、裁判官が法による司法判決を下す事である。つまり、神ご自身が人の罪を赦し、もう一度ご自身と人間とが正しい関係になったと宣言して下さる事である。これには前提がある。それは、一度赦されたものが、イエスキリストの再臨の時に、最終的な裁きの場にもう一度立たねばならない事である。

 

1節 価なしの義認

神は選ばれた者達を無償で義しいものとして下さる。その必要性は、全ての

人が罪を犯しており、神の律法を完全に守る事が出来ない事を理解し、悔い改めの必要性を感じた時に生じる。これは聖霊なる神のなさせる御業であり、人間が自分で出来るものではない。正に神の恵みの賜物である。そして、ローマカトリックが主張するような人間の業績や功徳によるものではないし、それに対する御褒美でもない。ガラテヤ1:11~17にあります様に、パウロ自身も律法に従って生きる事によって義とされると考えていましたが、イエスキリストの啓示によって回心し福音を伝える者としての道を選んだのであります。これも神の一方的な恵みでありました。

この節では、ローマカトリックの「義認の教理」を否定しています。確かに、「義認は神の恵みによる」と理解しています。しかし、決定的な違いはローマカトリックは義認を主観的に捉え、人間の内部で起きる神の恵みの御業で、教会の七つの秘蹟を通して分け与えられていると解釈しています。物理的な意味での解釈であり、且つ目に見える業を通してと言う事であります。これに対してプロテスタントでは、イエスキリストの義が信仰を持つ人々に転化され、神に赦されたとしたのであります。ローマカトリックでは、人間の本性の中に道徳的変化があれば良しとする緩やかな義認であり、聖書で教えている最後の審判の意義をぼかしてしまい、救いに対する確信を持てないまま地上の生活を終わってしまう事になっています。プロテスタントでは、聖霊の御業に従って聖化の道を辿り、イエスキリストと共に協働して最後の宣告を受ける事を、希望と慰めをもって待つ事を教えております。 ローマ4:5「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きが無くても、その信仰が義と認められます」

神は義とされる前に何か準備を完全にして内面的に変わらねば認めないとするのではなく、イエスキリストに結びつく事を決心した人々に対して「服従と信頼」において義とされると約束されています。全くの神の賜物であります。

ローマ4:1~12をもう一度お読み下さい。

 

2節 義認の唯一の手段

ローマカトリック教会では、人間は自分の救いにおいて神と協働して行うと

している。そして「義認は信仰による人間の内部の変化である」としたが、プロテスタントは「信仰が義認の唯一の手段」とし、唯一を書き加えた。これは、

信仰は人間側の持つ単なる資質ではなく、あくまでも信仰は神の賜物である事

の表現であった。同時にローマカトリックは、教会の諸教理に対して信者が知的同意を成す事も信仰としたのである。信仰は、知的論理をもてあそぶ頭脳の活動でなく(改革派の傾向を批判しているのではない)、唯一イエスキリストに対しての信頼と結合にて果たされる事を告白している。信仰は別の言い方をすれば

自己義認との決別である。自分を信頼して、自分を過信してなす行為でなく、

自分以外のイエスキリストの中にその救いを見出す事である。ローマカトリック

では、義認を一つの美徳ともとらえているが、全くの誤りである。義として下さるのは、三位一体なる神様であり、唯一その義においてなされるのであります。

 信仰と愛の関係は、1ヨハネ4:19で明らかにされているが、愛は人間側の行為でなく、キリストへの信仰が実を結んだ結果起こるのである。そして、神は人間を愛して義とされた後に、聖霊を通して聖化の道を歩まされるのであります。

神の御業の隠されている意図は、義認は聖化に先行していることであり、つまり赦しがなければ清い生活は送れないのであります。繰返しますが、清い生活をしたから義認が起こるのではありません。修道院に入ったからと言って、信仰が無ければ義認は起きる事がないのであります。

 

 3節 義認の二面性

 この節は、重要な課題を含んでいます。それは聖で義である神が、汚れていて不義な者のために何故死なれたのか、その罪を許容され、見過ごされる神が何故とことん不義な者達を滅ばされないかであります。この答えがここに書かれているのです。一つは、罪人に対して無償で義とされた事、二つは、キリストが律法の要求に対して完全に履行された事である。前者を消極的服従、後者を積極的服従と言う。つまりイエスキリストが肉体を血を持って自らの従順によって神に対して負債を支払われ、神の義に対する要求は満たされたのであります。また、神はイエスキリストを信じる者達を義とされたのであります。ローマ3:22~26 聖書に明らかに示されている義認の二面性は、神の一方的な恵みが、我々を

義に導いておられることを証言しています。

 

 4節 義認の起きる時

 神のご計画は歴史を越えて永遠にまでさかのぼる。義認が永遠における神のご計画であるからと言って、永遠において義とされた事ではない。2000年前の

イエスキリストがただ一度なされた業である。しかし、こんにち生きている私達

は義とされないと言う事ではない。「聖霊という別の弁護者」が、しかるべき時にキリストの贖いを私達に適用して下さっているのであり、義認は、聖霊が今、

生きている者に対してイエスキリストへの信仰に目覚めさせられる事であり、それは私達の命ある限りであって、決してそれ以前ではない。

 

 5節 義認された者の罪

 信仰者として生きている私達にとって、この節はたいへん慰めになる。何時も罪を犯した時に、もう駄目なのかと不安に思う事が多いからである。それに対して、神の赦しは継続している活動であり、「決して堕ちる事は出来ない」と、確信させて下さっています。なぜなら、義認は私達に対して無罪であると宣言して下さった神の救いの恵みでありますから、私達の地上における全生涯の一度限りの決定であるからです。だからといって、安心して罪を犯し続けるのでなく、悔い改めを持って信仰を守り続ける様にと神は命じておられます。祈りをもって、神への義しい応答の中で自分自身を、絶望に追い込む事なしに保っていかねばなりません。ルターが「大胆に罪を犯せ」と言ったのは、常に罪を悔い改めながら

も絶望している人々を励ますためでありました。それは、常に神を上目使いで見るのではなく、神と堂々と顔を見合わせて生きて行かねばならない事を教えてくれたのであります。

 

 6節 信仰者の義認は旧新約で同一である

 新約の時代にあってイエスの贖いにおいて、旧約時代より一層豊な福音の中にある様に見えますが、アブラハムの義認もローマ4:13では、「信仰による義に基づいてなされた」のであります。これは新旧約時代を通して、神の民を一本の絆にまとめる為でありました。今日の社会の中でも、この義認の教理は、神の愛を忘れている選びの民に対して、法と掟に従って生きる事を求めており、裁きの日に備えるように勧告しています。そして、この裁きの日は、悲劇的なものではなく、神の愛と赦しを同時に体験できる日になるのであります。

 

  第十二章 子とすることについて

 

序.

義認と子とする事とは、表裏の関係にある。義認は法廷用語であるが、子とする事はその人格面を扱う。子とする事は天国の世継とする意味であるから、有効召命を受けた者が、義とされ、子とされ、聖化されて行くプロセスを表現している。

 

1節 子とすること

神は、イエスキリストにおいて義とされた者を子とする恵みに預からせて

下さっている。その恵みは、以下である。

 神の子の数に入れられてその自由と特権を享受できる。

 神の御名をその上に記される。

 子とする霊を授けられる。

 恵みの御座に大胆に近づける。

 アッバ、父よと呼ぶ事が出来る。

 神によって、憐れまれ、守られ、必要を満たされ、懲らしめられる。

 諸々の約束を受け継ぐ事が出来る。

 

この子としての関係は、聖霊がその責任を果たされている。そしてそして聖霊により、神に対して、「父よ」と叫ぶ事が出来、確信を持って祈り神に近付く事となる。また子とされている事は、現実であるが、他方なお将来のことをも指す。それは、ローマ8:23「神の子とされる事、つまり、体の贖われる事を、

心の中でうめきながら待ち望んでいます」と証言しています。これは、1ヨハネ3:2「愛する者達、私達は今既に神の子ですが、自分がどの様になるかは、

まだ示されていません。しかし、御子が現れる時、御子に似た者になると言う事を知っています」 この様に将来子とされた者の栄光が、保証されているのであります。この時に子とされた者達に対する神の愛が完結するのであります。

 

 

  第十三章  聖化について

 

 

序.

有効に召命され、再生させられた者(義とせられ、子とせられた者)は、新しい心と、新しい霊を持つ事が出来るように、全てが整えられたのである。聖化は、敬虔な修道生活等によって成されるのでは無く、信仰者の日常生活全体の中において、働かれる所の三位一体なる神の御業である。そして、この神のご意志は、人が聖なる領域と世俗なる領域と区別して生活する事を許されず、我々のこの世の生活全体が、神の栄光を現すものでなければなりません。1コリント10:31 そして義認はある一点で生起しますが、聖化は継続して行きます。そして、この世では完成せず、新なる世で完結致します。黙示録21:1~4

 

1節  聖化の意味

義認は神との関係で、罪無き者とされる身分の変化であるが、聖化はこの世

における道徳的・霊的な生活の革新であり、変化であり、益々罪を厭い、神に生きるようになる事であります。そして、イエスキリストが聖霊により、私達の内で働かれる御業であり、聖化と義認は分けて扱う事はできません。ローマカトリックでは、聖い生き方に変えた時に義認が起こるという誤った理解がありましたが、この様に人間側の条件の変化で起きるのであったら、生き方に誤りがある時には、救いの確信が揺らぎ棄教につながり易くなってしまいます。また聖化を、自分の力で成す事が出来るとする誤謬もありました。聖化は、イエスキリストへの信仰を通して、聖霊の力に依るのであり、決して人間的な誇りや自己満足、自力救済によるものではありません。イエスキリストの死と復活の力によって、更に聖霊によって聖化され、諸々の欲情は薄められ、弱められ、力をそがれて行きます。そしてイエスキリストがもたらす新しい命の中に導かれて行き、イエスキリストの似姿を回復して行くのであります。

 

2節  聖化はこの世では未完成である

教会史の中では、聖化はこの世において可能だと主張した敬虔な人々が多く

いました。彼等の主張は、義認と同じ様に聖化は、神と人との愛の状態の中に現れ、即座に聖霊によって果たされているとするものでした。然しながら、誰の目にも明らかなように、義認が起きた後に罪ある人間が聖なる者となれるでありましょうか。外面では敬虔で情け深い人でも、その内面は外部からは伺い知ることは出来ない汚れと罪にまみれているのであります。そして、常に誘惑が忍び寄るのが、この世の中であります。この世は、教会にとっても個人にとっても正にサタンの勢力との戦いの連続であります。この戦いに勝利を収める為には、聖霊の御力によって教会に集い、御言葉と礼典と祈りで、イエスキリストの体につながって行く他はありません。

 

3節  聖霊による継続的な聖化

「聖徒達は、恵みに成長し」とありますように、信仰者は聖霊によって訓練され、ますます成長して行く事が告白されています。聖化には、絶えまざる進歩と成長があり、またイエスキリストに繋がる事において、愛となって現れる己の聖性を高めて、互いに愛し合い、聖なる公同の教会を建て行くのであります。

「聖なる」という言葉の中には、「分離する」と言う意味がありますが、ややもすると信仰者は、この世から隔絶したいとする気持ちから、この世の中と交わらないとする気持ちに捕らわれ易いのですが、信仰者は社会と積極的に関わりを持ち、伝道の為に献身せねばなりません。一方では、キリスト教的でない多くの社会的勢力から世俗主義に馴染むようにとの圧力を受ける事がありますが、それらに対しては毅然たる態度を持って撥ね返さねばなりません。教会がこの世にあって果たすべき役割を自覚し、継続される聖化を世に証して行く事において、イエスキリストが再び来られる時に、「私達の卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ姿に変えて下さるのです」。フィリピ3:21

 

 

   第十四章  救じょう的信仰について

 

序.

「救拯(ジョウ)的信仰」とは、信仰によって義とされる時の信仰を特に表現する。それでこの信仰の恵みは、聖霊の働きによって起こり、御言葉の説教においての外的召命によって生じる。  ローマ10:14~17

 

1節 信仰はどの様にして生まれるのか

信仰の動機は今までの価値観を、自分からイエスキリストへ転換させる事で

あり、そしてイエスキリストが果たして下さった御業にこそ真の救いがある事実を確認する事である。そうする事で神からの啓示を理解でき、今までの誤れる知識と行動の中に在った己の所業を悔い改めるようになれるのである。

「キリストの御霊の御業」これによって救いへと導く信仰が起こされるが、不信仰は高慢にも己の心を神とし、些細な知識を誇り、他人に対する憐れみを持たず、天地創造の神を知らずにこの世で罪にまみれて生きる事で、その中にあっては神の選び、御霊の御業を理解する事は出来ない。

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。この事は、自らの力に依るものではなく、神の賜物です」 エフェソ2:8 この御言葉に全てが要約されているが、信仰は神の恵みを唯受け取るだけであり、神に対する貢献であるかの様に思ってはならない。福音を信じるように選ばれた者の心と精神を、御霊によって明るく照らして下さり、覚醒させて下さるのである。御霊が、よしとされる時、如何なる場所でも、自由に働かれ、時には控えておられる。御霊はイエスキリストの体なる教会に彼等を導かれ、御霊の継続的な力強い働きを彼等に体験させ、イエスキリストへ従順に歩む事を、御言葉の説教と聖礼典と祈りにて教えられる。

 

2節 信仰の内容

ここでは改革派の信仰の意味、御言葉の意味が端的に告白されている。それ

は、一つには「信じる」、二つには「従い行動する」、三つには「信頼する」である。ローマカトリックは信仰を「同意」として扱っていた。それは、教会の教えに対する「同意」であって、聖書を読む事さえ許されなかった人々に神の御言葉への「同意」は起きなかったのであり、神の御言葉に従う事などは当然出来なかった。ここでは、明確に神の御言葉への同意を告白しており、御言葉において示されている福音に、聞き従い、神の権威に畏れおののき、戒めと掟を守り、永遠の命への確信を持ち、神への栄光を表す事を求めている。

我々が持つところの生きた信仰は、「ただキリストのみを認め、受け入れ、依り頼む事である」と告白されています。 マリヤ崇拝や聖人崇拝に堕落する事無く、ただ御子なるイエスキリストのみに依り頼む事を示し、真の人格関係をイエスキリストと結ぶのである。ここで、言わんとしているもう一つの側面は、知性主義に対する警戒である。真の聖書の知識に従わず、世俗の知識に従って聖書を解釈し、真の神から離れていく事を指摘され、福音の本質を見失わない様に言っている。聖書において語られている内容は、単に人間の持つ頭脳で理解されるのではなく、御霊の導きにおいて照明され人知をはるかに越えるものであり、イエスキリストへの信頼の中に、全ての課題に対する解答が含まれているのである。

 

3節 信仰の強弱

信仰は個人の違いにより、程度の差があるのは事実である。この世の誘惑・

試練とによっては、信仰が揺らいだり、疑ったりする事は12弟子の中でさえ

見られた事であった。ペテロの三度の否認、トマスの疑い、ユダの裏切り、正に信仰者の姿である。然しながら、イエスキリストは常に信仰者を憐れみ、聖霊において聖化の御業を行使されておられる。この事を我々が、信じ、励まされ、慰められながら全くの確信に到るように導かれているのである。

「この人々が、心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるイエスキリストを悟る様になる為です。知恵と知識の宝は、全てキリストの内に隠れています。私が、こう言うのは、あなた方が巧みな議論に騙されない様にする為です」 コロサイ2:2~4

 

 

        第十五章 命に至る悔改めについて

 

序.

永遠の命に至る悔い改めについて」 この永遠と言う言葉を添えてこの題を見る時に、信仰者がこの世で受ける救いの恵みをより一層理解する事が出来る。「義認・子とする事・聖化」は客観的超経験的面であるが、「信仰・悔い改め」は主観的経験的面である。信仰も悔い改めも、共に永遠の命に至るのであり、クリスチャン(信仰者)とは、信仰生活を送る者であり、悔い改めの生活を送る者である。

 

1節 説教による福音的恵み

2コリント7:10「救いに通じる悔い改め」とあります様に、私達がいく

ら信仰を説いても、聞く者が悔い改めに導かれなければ、福音の価値はありません。説教が、悔い改めに導く聖霊の御業を起こす事が出来なければ、その役割を果たした事になりません。汚れている己の身と心を神の前で、率直に悔い改める事無しには、救いの恵みを受け取る事は出来ません。聖くされていない己を心から悔い改め、キリストの赦しを頂き、その助けに信頼し、神の掟と戒めに従う事を告白せねばなりません。そうしなければ、イエスキリストが再臨された時に、神と顔と顔を合わせて生きる事が出来ないのであります。「聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが聖書は、私について証しをするものだ」ヨハネ5:39 御言葉の説教において、この真理が福音の恵みとして告げ知らされます。

 

2節 悔い改めとは

悔い改めに導く動機は、当然御霊の働きであるが人間側からすれば、「危険」「汚らわしさ」「厭わしさ」「後悔」等々である。これらの動機は、神の律法

に照らし、人間を正しき道に引き戻す働きをなす。そして、イエスキリストにおける神の憐れみを悟る時に、一層の悔い改めに導かれる。そして回心し、神に立ち帰ると、その向きが神の方に変えられて、御心に聞き従う様に成る。もし、この悔い改めが無いならば神の赦しを期待してはならない。

 悔い改めは、律法を説教する事で喚起されるだけでなく、イエスキリストにおける福音の説教に聴従し神の憐れみを悟る事によっても、尚一層効果的に喚起される。こうして説教者は、それを聞く人々に励ましと希望を提供しなければならない。またそれを聴くことで回心する者は、罪から離れ、神と共に歩む事を決断し、従って行く事が出来る様になる。

「悔い改めに相応しい実を結べ」 マタイ3:8

 

3節 悔い改めと赦しの関係

悔い改めは罪に対するつぐないでもなければ、罪の赦しの根拠でもない。そ

の根拠は、罪に対する償いはイエスキリストにより、彼のみによって成されたのであり、この赦しは価を持って買い取る事も出来ない。全く、イエスキリストの無償の恵みである。罪に留まる者にこの恵みは与えられず、罪から離れる者にだけ与えられる。そして、悔い改めがないなら赦しを期待してはならない。

 

4節 罪と裁き

信仰者の中にも、「大きな罪は赦されないが、小さな罪は赦される」と考える

者達が少なからず居る。しかし、「永久刑罰に価しない程小さな罪が無い」と言われている如く、罪は常に神に背くものであり、必ず神の裁きを招く。イエスキリストは、その教えの中で人を侮辱する事は、「あなたは殺してはならない」とする掟違反であるし、情欲に満ちた思いは「あなたは姦淫してはならない」とする掟違反である事を示されている。このように思いや言葉でも我々は常に罪を犯し続けている。また、「真に悔い改めて居る者にも永久刑罰を来たらせる事が出来る程大きな罪はない」と告白されているが、これは、罪を犯し続けてその罪の大きさに惑い神の裁きを恐れ、絶望する者に対して言われたのである。

これは罪の自覚のために反って自暴自棄になったり、命を絶ったりする者への慰めである。「神の霊が宿る神殿を破壊する事なかれ」を教えています。これは罪を犯し続ける信仰者が、己の罪から目をそらさず、直視し、そして神の憐みと恵みが人間の罪の大小に関係なく、大きく真実であり、悔い改めをする者には何処までも赦し続けられる事を示しているのであります。

 

5節 個別的罪の悔い改め

公同の祈祷会等でも、一般的な悔い改めを祈願する者は多い。しかし、自分

の家族に対する暴言、友人に対する怒り、高慢、卑しさ、悪口、嫉妬等具体的な自己の罪を神の前に祈る者は少ない。最近は、こうした傾向は一般的になってしまった。されどイエスキリストは「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れた所に居られるあなたの父に祈りなさい」と教えて下さっています。現代は、プライバシーの意識が大変高まっているので公同の祈りの中で個別の罪の告白を成す事には、抵抗が在るのも事実である。一般的な悔い改め、個別的な悔い改め夫々の祈りについては、これを深く詮索せずに信仰者が神の前に謙虚に出る事において解決するのである。「あなたがたの父は、願う前から、あなた方に必要なものをご存知なのだ」 マタイ6:8

 

6節 教会における罪の告白

信仰者は神との関係だけでなく、教会の共同体の中で生きる者である。この信仰者の交わりについては26章で学ぶが、ここでは他の兄弟姉妹達に対して罪を犯した時の事について告白している。現実の人間共同体の中では、教会員同士の様々な意見の食い違いや、思惑や、教養、家庭的背景等の違いによって争いと反目が起こるのはむしろ自然である。教会もその例にもれる事はない。

そして思い・言葉・行いで罪を犯した時には、個人的な告白と教会に対する告白がある事を教えている。そして犯した罪を心から悲しみ、改悛し、悔い改めを告白しなければならない。また「被害者は、加害者と和解し愛において、彼を受け入れる」事を勧めている。 2コリント2:5~8

この様に個人の罪が教会の純潔・繁栄・増進に対して、影響を与える様な場合に教会の規定に従って、本人を悔い改めに導かねばならないし、悔い改めをしない時には、教会の一致と純潔の為に、また教会の頭なる主イエスキリストの栄光を表す為に戒規に付さねばならない。  エフェソ1:20~23

 

 

    第十六章  よきわざについて

 

序.

ここでは「善き業」について、私達が漠然と考えているものでなく信仰者にとっての善き行いは、「神がその清い御言葉において命じられたもの」と明確に定義されている。これは、ミカ6:8 が証拠聖句である。

 

1節 善き業とは

「わたしの愛する兄弟達、思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全

な賜物はみな、上から光の源である御父から来るのです」 ヤコブ1:16

人間の性質は全面的に腐敗しているので、善き行いとか慈善の業とかが完全な善行と言えるであろうか。マルコ10:18「何故私を善いというのか。神お一人の他に、善い者は誰も居ない」 この節は、ローマカトリックが信者に、課してきた“善き行い”と称する数々の人間的行いが天国への切符であるとして来た諸悪を一掃する狙いがあった。聖地巡礼、難行苦行、修道院への寄進、数珠数え、画像崇拝等々、聖書的な裏づけ無しに人間の想像の産物である“善き行い”を、救われたいと願う信者に押し付けていたのである。イエスキリストは、マタイ23:4で「彼等は背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かす為に、指一本貸そうともしない」と言われ、当時のファリサイ派の人々が他人には善行の重荷を課すが、自らは手を貸そうともしない偽善を告発されているのである。人間が勝手に作った“善き行い”は、結局自己正当化の為の言い訳や、人の前で自分を誇って見せる為のものである。

従って、悪しき動機によって成される善行を否定して、聖書の光に照らして正しいとされる“善き行い”、また隣人を愛する動機から出ている“善き行い”これは、信仰の実であるから積極的になさねばならない。

 

2節 善き業の意義

真の信仰は、良い幹が豊かな実を結ぶ様に、神の目から見て善き業として必

ず実現する。善き業は、真の生きた信仰の結実・証である。ヤコブ2:13、

1ペテロ2:20、1ヨハネ2:3~6、2ペテロ1:5~8、テトス2:5~8、ローマ6:22~23等に記されている。その根本的な意味は、善き業が救いの恵みから生じ、人間の心情から生じる功徳的なものでなく、また救いの条件でもない事を教えている。そして善き業は神を喜ばせ、同時に教会の兄弟姉妹の信仰をたて上げ、益するものとしての意義がある。信仰者達は、自分達の信仰を口において語ると同時に、神が彼等に求めておられる善き業を実際に行う事で「福音の告白を飾る」のである。またこの善き業は、不信仰者に対してもその批判を封じる最も効果的な手段である。ローマカトリックの様に、善行において救われるとするのも誤りであるが、ルター派・福音派の教会の中では、信仰者の生活の中で善き業を強調する事は、信仰義認の教理を危うくするから、また善き業は信仰者が己の高ぶりを招く事になるから、善き業を勧めないという事が言われて来た。それは本末転倒の考えで、イエスキリストがなされた愛の御業にも反する。善き業は真の生きた信仰の証拠であり、信仰の結ぶ実である。

 

3節 聖霊の御業である善き業

善き業の究極的な動機と力は、人間の内的力によって獲得されるのではない。

それは全くイエスキリストの霊によるものである。信仰者は、イエスキリストと言う新しい衣を着るのであるから、聖霊の働きにおいて神の御心を忠実に果たしたいとの欲求が起こって来る。この点でも誤解がある。それは、その様な特別な導きが与えられるまでは善き業をなさずにひたすら待ち続けると言う理解である。神の御心とはあまりにも違う考え方である。また古き時代の修行者の中には、御霊の働きを誤解して内省的となり、自己に没入し狂気の沙汰とも思える行いをした者達がたくさん居たのも事実である。一本の柱の上で20年以上も修行した柱頭行者等がその代表である。この様に幾ら自分自身の心の中を覗いたとしても神の御心を伺い知る事が出来るであろうか。否。御霊は聖書を通して私達に語りかけて下さるので、信仰者の内向きになる思いでイエスキリストの救いは理解出来ないし、真の善き業にも導かれる事はない。

 

4節 カトリックの余功の否定

ローマカトリックは、結婚の否定、清貧、修行、修道生活、托鉢、断食、巡

礼等々の神が求めている以上の善き業を果たす事で、天国で大きな報償を受ける事ができると言った。この余功とは、ルカ10:35「費用がもっとかかったら、…払います」から来ている言葉で、“必要以上に払う”と言う意味です。

当時のカトリックの教えは、一般の信者が従う掟と、修道者達を拘束する掟とを区別して考えていました。この修行者達によって成される善き行いが、つまり余分な行いが余功とされており、これが功徳となりあの世での特別な地位が約束されていたのであります。宗教改革の狼煙となったのは、免罪符の販売でありこれを購入した者は、特別な赦しを得られると言うものでありました。信仰による、救いがこれ程の階級差別を生んだのであります。

 

5節 善き業は功績とならない

“功績の教理”がローマカトリックの中心的なものであったので、この節で

はそれを否定している。会計帳簿の中に書かれている様に、負債である罪は左側に、善き業は右側に置かれると言う考え方である。つまり利益を出すには、罪を上回る善き業を成せば良いとするものである。これに対して、告白では反論を加えている。

つまり人間の罪と神との間には、「無限の距離」がある。第一に、人間は自分の過去の罪に対して償ったりする事は出来ず、それを消し去ったり、取り消しをしたりする事も出来ない。また出来る事を全てしたとしてもそれは神のご命令を守ったに過ぎないのである。我々は、真に取るに足らない者であり主の僕に過ぎないのである。この者が、過去の罪を帳消しにして頂こうと思う事さえ、不遜である。第二に、この世の生活の中で善き業を成す事が出来たとしても、その心理の中では、御霊において成されたとは言え、ある思惑と意図を持って行われている。これは、無意識下と言えども本来の汚れと、弱さと、不完全さの故に、またそれを反映している行いなので、最終的な神の裁きを免れない。

 

6節 善き業はイエスキリストによって受け入れられる

5節を読んだ時に、多くの人は誤解する恐れがある。それは幾ら善き業をし

たとしても神の裁きを受けるのなら、やらなくても良いと早とちりする者が居る事である。神はこの善き業を人間を通して見るのでは無く、独り子イエスキリストの御業として見るので、例え人間が汚れていても、弱点があっても、不完全であっても、受け入れて下さる事を告白している。神は信仰者の悔い改めた人格を承認して下さっており、大いなる慈しみと愛を持って、彼等に報いて下さると約束されています。

 

7節 再生していない人の善き業

不信仰者が信仰者を批判する時、「愛の宗教と言っても、クリスチャンは福祉

活動にも協力的でないし、障害者対策にも熱心でない。我々の方が一生懸命ににやっている」と言われます。改革派教会内で、献金のお願いはありますが、体を動かしての社会的奉仕活動の依頼は少ないのが事実であります。この事は反省しなければならない点であり、悔い改めが必要なのかも知れません。しかし、ここで告白されている事は、三つの不信仰者の善き行いに対する見解であります。

 不信仰者の善き業は、信仰によって聖められた心から出てない。

 それは正しい仕方で成されていない。理由は、神の御言葉において、律法において、またお与えになった掟に従っていない。

 それらの善き業は、神の栄光を崇めると言う目的に従っていないし、それを念頭に置いていない。

この様に再生していない人間の最善と思われる善き業も、聖なる神の前では、いささかも報償の対象とはならない。その上、一つでも善き業を成さないなら、神の怒りと罰はその頭の上に増す事になるのである。

 

 

   第十七章  聖徒の堅忍

 

序.

出エジプトの故事を読んでも、荒野の40年間の彷徨によってエジプトは出たものの、約束の地に入ったものは居なかった。この様な例からある者は、救われた者が救いを得られずに終わる事があるのでは無いかと考えた。これに対して、宗教改革者はこれを否定した。

 

1節 聖徒の堅忍とは

メソジスト教会の創立者である J. Wesley は、この教理を認めなかった。そ

れは二つの理由からであった。一つは、教会生活からの経験からであった。洗礼を受け、いったんは熱心な信仰者になっても時が来ると敬虔な生活、奉仕、証の生活からさ迷い出し、教会へ来なくなってしまう多くの人がいた事。二つは、ヘブル6章やコリントⅠの手紙10章などで信仰から落ちてしまう者の記事があり、これを誤解して罪を犯したら神から懲罰を受けるのではないかとする恐怖心から信仰を捨ててしまう人々が居た事である。ある詩の一節に、「我の恐ろしき罪故に、最後の糸をつむぎ終えし時、我は岸にて朽ちはてん」と信仰者の多くが、自分の罪の行く末を悲観的に捉えていたのであります。カルヴァンの五特質(ドルト信条)にも聖徒の堅忍が言われており、神の民が最終的に全面的に落ちる事は無く、堅忍する恵みは神の選びの愛にその根拠があり、主イエスキリストへの信仰を公に告白している信仰者は失われる事が無いと告白しています。つまり、真に新しく生まれた者(選民)が、取り返しのつかない滅びに至る事は無いのであります。何故なら救いの恵みは絶対主権を持って居られる神にあり、選ばれた民が例え一時誤ったとしても、最終的な脱落は無く永遠に救われるからであります。  エゼキエル33:10~11 参照

 

2節 聖徒の堅忍の根拠

堅く耐え忍ぶ事、つまり再生した信仰者の堅忍は、神の選びにおける恵と、

イエスキリストの御業、そして内在する聖霊の御業でもある事を学びました。

ローマカトリックは神人協力説、つまり人間は神と共同して働くという考え方をとっていました。これにより神が恵みを与えて下さるのに対して、人間は信仰を提供すると教えていたのです。それで人間は、恵みを受け取る前にある程度の信仰と愛を示す事で、自分が恵みを受けるのに相応しい者であることを神に示さねばならず、神の恵みと人間の信仰は相対するものとなったのであります。それ故、神の救いは人間の意志が示される前に、待つ事になります。この教えは明らかに誤りであります。人間の自由が、神の御業の遂行を妨げる事なぞあり得ません。神が人間の内に、神を信じる自由と信仰をおこさせて下さるのであって人間側の業に因るものではありません。神は人間の内に神を信じ、神に従う自由と、そうしたいとする願いを聖霊においてなされるのであります。そして信仰者を堅忍させ、信仰を守り続けられ最後の裁きの時に、神の子として下さるのであります。 讃美歌270番参照

 

3節 信仰者の離脱

信仰者は、信仰という杖を持ってこの世を旅していますが、その道は平坦で

なく多くの山坂があります。その山坂で息切れしてしまう原因をここでは述べています。「サタンとこの世の誘惑」「残存する腐敗」「自分を保持する手段を怠る」これによって信仰者と言えども、信仰喪失と言うひどい罪に陥ってしまうのであります。これは、神を悲しませ、霊的な命の喪失につながって行くのであり、一時的な裁きをもたらす事になるのであります。ヘブル12:4~11

しかし、神は信仰者を、サタン等の力に任される事はされず、それに打ち勝つ事の出来る手段を備えて下さっています。神の御言葉である聖書を読み直し、己の悔い改めの心を持って祈る、その事で神の御許に再度招かれて行くのであります。初めて、船旅をした方が、船長にこう尋ねたそうです。「船長さんは海の中に、多くの岩があるのをご存知ですか」「いいえ、知りません。でもたっぷり深い水がある事をしっています。そして海図通り進んでいますから」 船長は答えました。信仰者は、つまずきの岩を知るより、それらを大きく深く包み込んでいるイエスキリストの愛を知り、御言葉に従って信仰生活を送っていけば目的地に到着する事が出来るのであります。

 

 

   第十八章  惠と救いの確信について

 

序.

「恵みと救いの確信について」とは、恵みと信仰の確信とも読める。ローマカトリック教会では、確信を単なる憶測、即ち神の御心を人間側の推し量りにおいて捉えており、信仰義認教えてこなかった。それで多くの信者が救いの御業に対して確固たる信仰と確信を抱かず、永遠の命に対して疑いを持ち多くの棄教者を出してきた。信仰改革者達は、明確な信仰義認の教理に立ち、信仰の確信を信者に説き、聖霊の御業である恵みの手段を明確にし、救いの先にある栄光の神の姿を指し示したのである。

 

1節 信者の持つ確信

この世で多かれ少なかれ物事を確信だけを持って進む人はまれであろう。

信仰者でも、将来について、死後の状態について、真の確信を持ち続ける事は難しいであろう。時には、不信仰者のように神の存在を否定したり、三位一体なる神を疑って見たり、神の救いを安易に考えていたりする。ユダヤの民が、信仰により義とされたアブラハムの子孫と言う事だけで、偽りの救いの確信を持っていた。そこをイエスキリストは痛烈に批判された。 ルカ3:8 神の御前に信仰を持って歩む者は、自分達が恵みの状態にある事を、この世の生活の中で理解でき、確信を持つ事ができ、神の栄光に預かる事で、失望を持たず希望の中に生きる事が出来るのである。決して、妄想的な、狂信的な、神秘的な確信でなく、聖霊の導きにおいてなされる確信である。 

 

2節 確信の土台

そこで真の救いに至る三つの特別な資質が告白されている。

「救いの約束の神的真理」「恵みの内的証拠」「御霊の証明」言い換えると「主イエスを信じる」「心から愛する」「御言葉に従う」であり、これを通して信仰と救いに対する無謬の確信が得られると告白されています。されどこの様に告白されてはいるが、信仰者の一人一人の生活と経験はこの世では違うので、疑いの思いは頻繁に襲って来る。そして己を責めて、神の救いの豊かさを忘れてしまうのであります。だが次の御言葉から、「希望は私達を欺く事がありません。私達に与えられた聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているのです」ローマ5:5 救いの確信が得られるのであります。イエスキリストの御蔭で、救いの恵みの信仰に入れられ、永遠の命への希望を持って、この世で生きて行かれるのであります。信仰者にとっての確信とは、一つ一つの小さな確信ではなく、大きな一つの確信、それは神と顔と顔を合せて共に生きて行かれると言うものであります。

 

3節 確信は信仰の本質ではない

  この節では、誤りなき確信について述べています。ある者は次ぎの様に言った。「疑いは正直な魂の苦悶か、愚か者の知的ゲームのどちらかである」。信仰者と言えども、しばしば心の中に隠された罪故に、正しい信仰と良心を放棄してしまうものであります。 1テモテ1:18~20 参照

 

 この確信は信仰の本質に属するものではないし、信仰への条件でも無い。信仰告白したばかりの者には普通この確信はまだ芽生えていません。何故なら、己の信仰を弁証出来ず、世の無理解に動揺したり、科学万能主義にたじろいだりしてしまうからである。これらの誘惑や試みにに対してたじろぐ事の無い確信は、まだ持てないのです。

 この確信を得る為に、何か神秘的な体験を要するのではなく、教会に於け

不断の教育・訓練が必要である。

 この確信に至る為には、教会員の絶えざる祈りが必要である。

 この確信の賜物は、他の恵みの賜物と同じ様に聖霊の恵みにおいて与えられる。

 信仰者にとって、確信へのひた向きな努力は、信仰の目標としてそれを達成すると言う喜び、神への愛、従順の義務を果たす力に満たされる。

 

4節 揺らぐ確信

信仰者の生活は、常に心が満たされ安穏に進んでいくものではない。世の

悪(世俗、肉欲、誘惑)に捕らえられ、敗北させられる。聖職者も例外では無い。信仰者が罪に屈した時に、信仰的配慮をせずに大目に見たり、放置したりすると、信仰は弱められあらゆる類の不信や疑いが起きてしまう。それ故確信は、信仰の戦いを通して得られるものであるから、常に注意と細心の警戒を持ってこの世の生活を送らねばならない。その為にも、主日の礼拝は欠かせないものである。世の格言に、「失敗は成功のもと」「失敗は終わりではない」とありますが、この意味でキリスト教は「やり直しの効く宗教である」と言う事が出来ます。これはイエスキリストの十字架の贖いにおいて、信仰者の救いが保証されており、聖霊が何時も心の中に住んでいて下さるからである。

 

 

   第十九章  神の律法について

 

序.

この「律法」と言う文字を読む時に、この言葉が置かれている文脈によって色々な意味に解釈できる。ヘブル語では「権威ある教え」と言う意味があるが、「啓示された神の御心」とも言われています。またモーセ五書を指す場合もあれば、聖書全体を指す時もある。また律法は神の愛であり、神の言葉とも理解されています。1ヨハネ2:5「神の言葉を守るなら、真にその人の内には神の愛が実現しています」 イスラエルの民は、この神の御言葉である律法を破り続け、それ故神はこの民を憐れみ、救いに至る律法と掟を与えたのであります。

ヨハネ1:17、ローマ7:12、ガラテヤ3:19~24、1テモテ1:8

 

1節 業の契約としての律法

創世記の記事からは、「決して食べてはならない(業の契約)。食べると必ず死んでしまう(命の契約)。」と言われ、その律法を守り服従する義務を負わせたのであります。破れば霊的な死を与えると威嚇されました。この時、アダムは神の像として創造されましたので、その律法を守る能力と力が備えられていたのであります。しかし、この最初の人類の代表者が犯した律法違反(原罪)で、その後の全ての子孫が罪を犯した事となったのです。これに対して、ペラギウス主義(AD416年異端とされた)では、①アダムは罪を犯さなくても死んだ。 ②アダムの罪は全人類に及ばない。 ③人間は堕落前のアダムと同じ状態で生まれる、と主張しました。改革派教会は、罪ある現在の人間は本来の姿ではなく、罪によって神の像は壊れている不自然な人間であり、体の隅々まで罪にまみれているとしています。人間は、最初から業の契約の下に置かれながら、その契約を破ってしまったのであります。神との本来の正しい関係は、人間の側からの、律法に対しての完全な従順によって成されるのであります。

人間は決して神の律法から離れて自律的に生きることはできません。神に由来する律法に対して常に応答せねばなりません。その基本は、主の日の礼拝であります。そこで神の御心を聴き、神の栄光を表す事で、律法に定められている安息日の掟を守って行くのであります。  第21章参照

 

2節 道徳律法とは

律法は人間の堕落によって廃止されず「義の完全な規準」であり続けたので

あります。モーセ契約の柱としての十戒において明白・具体的に神の指で書かれました。「私は主、あなたの神」「奴隷の家から導き出した神」と自らを選びの民と結ばれ、そして彼等の罪を贖われた事を啓示されておられます。そして神は、十戒を単なる戒めではなく神の救いの恵みにおいて、贖われた民との契約を通して信頼関係を結ばれたのであります。そしてこの十戒を守る事こそ、神と人とを愛する事であると示されたのであります。最初の4戒までが神を愛する事、5戒以降が人を愛する事を定めています。愛は戒めを成し遂げる推進力であり、愛と戒めは相互の関係にあります。「あなた方は、私を愛しているならば、私の掟を守る」 ヨハネ14:15  言い換えれば、律法は高速道路の様なものであり、愛は目的地に到達する為の自動車であります。山坂があり、カーブの連続があっても、運転を間違えなければ道路から飛び出す事も無く、無事に目的地に到着出来るのであります。この高速道路が道徳律法であります。

 

3節 儀式律法

この道徳律法は恒久的妥当性をもった掟でありますが、この他に神は選びの

民に対して、儀式律法と司法律法を与えられました。そしてこの節では、前者について説明をされています。「予表的規程」とは、旧約の時代における礼拝儀式全体は、イエスキリストを前もって目に見える形で民に示されたものであり、彼の到来を示す予表であった事を表現しています。 ヘブライ10:1

これらの儀式律法は、イエスキリスト到来によって実体が現れたので廃止され、新約の教会では犠牲の奉げ物を最早なさず、イエスキリストの恵み、行為、苦難、祝福を覚えて礼拝を奉げる様になったのであります。

 

4節 司法律法

ここでの司法律法は、選びの民の日々の生活におけるあらゆる争い事、犯罪

を裁く為のものでありました。イスラエルの国家が崩壊した時には、国と共にその定めは崩壊したのでありますが、離散の民達は夫々のゲットーの中で、一部適用していました。しかし、新約時代になって異邦人達に福音が宣教されていく事により、当然この司法律法は破棄されねばなりませんでした。「一般的原則適用」つまり司法律法が持っていたところの「一般的公平」つまり「正義の原則」は、何れの国家において適用されるものでありますし、今日の教会の中においても、「神の正義」は不変であります。

 

 

5節 道徳律法の拘束力

「義と認められた者」にも道徳律法が義務づけると言われていますが、ここ

をある者達は、律法主義として非難しました。律法廃棄論者達は、十戒は信仰者が守るべきものである事を否定し、真の霊的命は律法にはないと主張した。

これに対して、改革派は、律法は律法主義と違う事を明白にし、律法は神の御心でありそれに従順に従う事を主張しました。神の愛を表さない、人間が作った戒律が律法主義であり、ファリサイ派や律法学者達が主張した律法主義そのものであったのです。選びの民を拘束し、罪に定めてしまうものでありました。

道徳律法は、「義と認められた者」「他の人にも全ての者」に与えられた道徳的規準であります。決して二種類の規準があるわけでは無いのであります。この道徳律法の拘束力はその内容と神の権威故に、義務づける力となっており、神の愛から出ているのであります。神の御子であるイエスキリストにおいて、この義務は罪ある者の代わりとして果たされ、それは今も有効に働きより一層強化されているのであります。神は今もなお生きておられ、この道徳律法も正に信仰者の規準として生きているのであります。

 

6節 道徳律法の有用性・働き・用途・効用

この節は、長文であり四つの段落に分けて読まなければなりません。

第一に、「律法は神の御心と……それを憎むようになる」

第二に、「それとともに……示すのに役立つ」

第三に、「同様に律法の諸約束……祝福を期待できるかを示す」

第四に、「それで……証拠にはならない」  であります。

第一段落は、律法の第一効用とされており、市民的効用・生活の規準として信仰者だけでなく一般の人達の守るべきものであるとしています。つまり市民として相応しく歩く規準を示されたのです。

第二段落は、律法の第二効用とされており、教育的効用、つまり信仰に導く養育係的効用とされています。 ガラテヤ3:24 罪の性質を悔い、憎むようになった者は、キリストとその完全な服従について明白に悟る事が出来るようになり、罪から出てくる所の腐敗を制御できるようになるのである。

第三段落は、律法の第三効用と言い、信仰者にとっての聖化への効用であり、教理的・規範的効用とも言われている。「服従に対する神の是認」 改革派では、この第三効用を尊重し、信仰者が果たすべき十戒の定めを、信仰の確信へと繋がるものであると意識し、教会の中で子供の時から信仰告白を教えて来ました。

この様に律法を教えて来たのは、救いの必要性・罪に対する自覚等が希薄とならない為であったのであり、この第三効用を用いていないと、教会の中では律法に対する虚弱な体質が蔓延り、浅薄な伝道がなされてしまう。そして教会内での、兄弟姉妹の中における証が疎かになり、公然の罪がまかり通る様になってしまうのであります。

第四段落は、律法は悪を止め、善を行わせるものであると言っています。イエスキリストがこられた事で旧約の律法からは解放されているが、恵みの契約の下には相変わらず信仰者達はいるので、律法によって善を行い、悪をなさない事は当然であるとしています。

 

7節 福音は聖霊を通して律法を完成する

信仰者にとって神の律法は、「福音の恵み」に反するものではなく、見事に福

音に適っているのであります。そして神の愛と恵みの中で、聖霊において従順に素直に従えるのであります。そして、「自由に喜んで」律法を果たす事が出来、自分の為にも、兄弟姉妹の為にも、進んで奉仕し、教会を建て上げて行く事が出来る様になるのであります。

 

 

     第二十章 キリスト者の自由および良心の自由について

 

序.

第九章と重なる部分がありますが、ここではキリスト者の自由と良心の自由について告白されています。英語で自由は、freedom liberty  で表現され、前者は政治的・国家的な自主、独立を意味し既に享有している自由を示し、後者は、束縛するものからの自由を示しています。またscope で表現される自由は、活動の自由を示しています。この章で言われている自由は、霊的な性質を表現しており、この世で様々な悪や罪責からの自由であります。

 

1節 自由の定義

イエスキリストが買い取られた自由は、神の怒り・呪いからの自由、サタン・

罪からの自由、種々の害悪・艱難・刑罰からの解放、神へ自らの意志において近付く自由、自発的精神で神に服従する自由等である。これは当然現世に於ける聖霊の助けによる聖化の道程である。そしてイエスキリストの主権の下で、教会の中で、奉仕する事においてこの自由を経験する事が出来ているのである。

ローマ6:17~23 参照 旧約時代の儀式律法の頸木から自由になり、イエスキリストに繋がった事で、数々の救われた者としての特権と聖霊の祝福に、今預かっているのであります。 ローマ8:21 「神の子供達の栄光に輝く自由にあずかれるからです」 

 

2節 神のみが良心の主である

ここではローマカトリックが信者に対して誤謬を押し付けていた事を非難し

ています。ローマカトリックでは、個人の良心は教会の判断に従う事を強制していました。旧約聖書のダニエル書では、ダニエルは自らの信仰の自由を守る為に、敢然と死に立ち向かいましたが、義なる者は神が救われました。使徒5:29「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と、ペテロは証言し、福音を宣べ伝える権利を堂々と主張しました。この良心は、聖霊において心の中に注入され、神の御言葉が正しく理解されている所から起こるものであります。ですから、その良心から離れて他の人間の心を心とする時には、真の良心を裏切る事となるのであります。また自分の心で勝手に作り出した、狂信的・盲目的服従・無批判な服従は、避けなければなりません。それは、良心の自由と理性を破壊する事になるからであります。歴史の中でも、サタンの教会・国家・独裁者・現代では企業等、これらに己の良心を売り渡してしまった例はあまりにも多く在りました。

3節 キリスト者の自由の濫用

今日の教会の中だけでなく、その昔からキリスト者の自由を唱え、自分達罪

を見せず上手く取り繕って来た多くの信仰者がおりました。この様な人々に対して、イエスキリストは罪を犯すために自由が与えられているのでは無く、神の御意志を実現する為に、この自由を行使する事を教えたのであります。罪を犯す者は、真に自由なのでなく罪の奴隷となって拘束されているのです。ヨハネ8:34「はっきり言っておく。罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である」

真の自由は、正に神と主イエスキリストに仕える事なのであり、罪を犯したり、欲情を抱いたりしてその自由を破壊する事が無いように指摘されている。

讃美歌333番 を歌って見て下さい、喜びを持って神の御心を行う事が、如何に自由であるかを表現しています。

 

4節 キリスト者の自由と国家と教会の関係

この地上の権威と自由との関係は、その権威と権能は神から与えられているので、信仰者の霊的な自由を束縛しない限り、その国家的権威に従う事を告白している。そしてこの自由と国家の関係は、互いに相手を尊重し、維持して行く事が神によって意図されているのである。それにもかかわらず、ローマカトリック教会でも、英国国教会でも権力の濫用によって多くの人々を迫害の渦に巻き込んでしまったのである。また権力の濫用により神の定めに反抗をし、国家が異教的な統治をなした不幸な時期もあったのである。この中で、「敬虔な権能」とあるのは「信心の力」と訳するのが適切であろう。

「信仰・礼拝・行状・に関するキリスト教の周知の原則」に反する意見を公表したり、そのような行為を続ける人々を取り扱う権能が、教会だけでなく国家にも与えられるべきだと言われているが、これは当時の英国の状況から言われている事であり、今日では国家の務めでは無い事が明らかである。現代では、信教の自由が国家から保障されているので、教会権能は国家から明らかに分離している。従って、宗教に国家が介入する事は出来ないし、信仰の自由も保障されている。また教会内での、平和と秩序そして純潔を破壊する者に対しては、教会権能の行使によって譴責や戒規に付し、それでも悔い改めの無い時には、教会裁判において審決する事を告白している。

 

 

      第二十一章 宗教的礼拝および安息日について

W-告白」 21:1~4

 

 序.

 礼拝について詳細に告白され、安息日理解にも益する章である。神礼拝は

キリスト教会の本質的柱であり、今日この箇所が告白されていない教会は、果たして正しい礼拝が行われているのであろうか。かって、イスラエルは十戒の第二戒の掟を破り金の子牛礼拝(出32章)、ソロモンの背教(列上11:4)、ヤロブアムが案出した礼拝(列上12:28~33)など様々な

誤った礼拝が行われた。また、新約時代になってもローマカトリックや東方教会でも、マリヤ崇拝、聖人崇拝、画像礼拝が行われていた。正しい神礼拝は、今日の教会でも正にその中心に位置付けられています。神の民が、呼び集められ主の御前に出るとき、神がどのような方であり、いかなる業をなされているお方か、それを思うときに心からの賛美とその栄光を表そうとするのは、むしろ自然な思いではないでしょうか。決して強制されて成すものではなく、義務感でなすものでもない。

 

 1節  真の神礼拝

 「自然の光」は、自然啓示の中で万物の造り主は明白に啓示されている事を示している。そしてこの方こそ「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、

畏れ、愛し、褒めたたえ、よばわり、信頼し、仕える」おかたである。そして、正しい礼拝は神自ら定めれたもので、人間のさまざまな想像や工夫、あるいはサタンの示唆にしたがったものではない。「可視的な表現」とは、画像崇拝を意味している。これらを否定する理由は、礼拝は正しい心と精神から湧き出る信仰と従順によってささげられる霊的なものだからである。偶像や画像が神と人との仲介をするのではない。「そして、聖書に規定されていない何か他の方法で、神を礼拝すべきではない」。長い教会史の中で、美的感覚を刺激する芸術的な彫刻や、神秘的な感覚に誘う音楽などが礼拝の中心になってしまった事は事実であるが、その事によって神との正しい関係が崩れるのであれば、本末転倒であり神への目がそれてしまう。み言葉と、聖礼典と、祈りをもって霊的な礼拝をささげなければならないと、その礼拝は不毛で、醜く、寒々として不敬虔なものとなってしまう。また今日の様に、各種の楽器や、ボーカルによってなされる礼拝は、娯楽との境目があいまいになり、神よりも人間に関心が行ってしまう。これでは生々しい霊的礼拝とならなくなってしまう。もし、それを望むのであれば、礼拝式とは別に行えば良い。礼拝は神の神聖と栄光を表すのであるから、それなりの秩序を持って為されるべきである。

 

2節  礼拝の対象は三位一体の神である

礼拝は「父・子・聖霊なる神」に限定されている。ローマカトリックでは、「天使・聖人・他の被造物」に礼拝がささげられており、天使には礼拝を、聖人には崇敬を、マリヤには特別な崇敬を払って礼拝が行われている。

当然、マリヤは永遠の処女ではないし、聖書の中では普通の家庭の主婦であった。また、「天の女王」「仲介者」「贖い主」などの称号を付けてマリヤを礼拝していた。これでは、イエスキリストとの境目がつかず「神の母」などと呼ばれる有様であった。これは神の主権を犯す大罪である。それで、この告白では、その誤りを正すために、「どのような者の中保によっても礼拝すべきでない」と、言ったのである。今日でも、いまだに「共同仲介者」「共同贖い主」なる教理が存在し、唯一の真の仲保者の存在の認識なく、誤った礼拝がなされている。

 

3節  祈りの基本

 祈りは感謝をもってなされる宗教的・霊的な特別の要素であり、神によってすべての人に本来為すように求められている。そして、受け入れられる為には、次の五つの基本的要素を含んでいる。

 1. 御子の名によって祈る

 2. 御子の霊の助けによって祈る

 3. 御子の御心に従う

 4. 理解・尊敬・謙遜・熱心・信仰・愛・忍耐を持って祈る

 5. 日常使っている言葉で祈る

 

第二バチカン公会議までは、世界中のローマカトリック教会では、ラテン語の聖書、ラテン語での祈りがなされていた。つまり、信者は理解できないみ言葉と理解できない祈りを聞かされていたのである。

 

4節  祈りの対象

 祈りは、礼拝がなされる三つの要素の一つである。(み言葉・礼典・祈り)

そして、神と人との直接的交わりであるので、神が愛において定めた律法を成就するためにも、現在生きている人、これから生まれてくる人の為に為されるべきで、決して死者礼拝や、死に至る罪を犯した者を礼拝してはならないと、告白されている。かって、ローマカトリックでは、煉獄の教理を保持するために、死者の為のミサと祈りを行っていた。これが、後に免罪符の販売につながり、宗教改革の原因でもあった。改革派神学では、そのような祈りは無益で、不法であり、福音とキリストの贖罪の有効性を危うくするので、これを否定したのである。

 

 5節   礼拝への態度と要素

 聖書を読む。

 健全な説教に、良心的に、神に服従して傾聴する。

 感謝して詩篇歌を歌う。

 礼典にあずかる。

この四つの要素を、敬虔に守らねばならない。また特別な場合の感謝の祈り、宣誓・誓願、断食等もやはり聖なる思いと態度でなさねばならないとしている。

 

 6節   礼拝の場所

旧約の時代でも、神殿だけでなくシナゴーグでも礼拝が行われており、礼拝

は特定の場所でなされねばならないものではなかった。新約の時代では、その初期には家庭で礼拝が行われ、説教と礼典と祈りが熱心に行われていたのである。現代では、この事が次第に軽視される様になり、大きな会堂、雰囲気ある設備、付設オーケストラ、パイプオルガン等に目が行ってしまい、そこに人が集まる様になってしまった。しかし、主イエスキリストは、「真の礼拝をする者達が、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。何故なら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。だから神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」 おっしゃられたのである。 この正しい礼拝が守れるなら、草原であろうと、小屋であろうと、家庭であろうと、神はその民の礼拝を受け入れて下さるのである。

日ごとの家庭における礼拝もここでは告白されている。今日では、信仰者の家庭で、食事の際の祈りも全員でする事はすたれたようである。また家族が聖書を一緒に読み、祈る事も薄れたようである。これは各自の生活スタイルの多様性が原因ではあるが、これがすたれた事による弊害は契約の子の信仰継承にも暗雲を投げかけている。この家庭礼拝の効用は家族の一致結束と、道徳的修養の教育と訓練に役立ったのであるが、今日では、教会にその役割が期待されているが、真の基本的役割は家庭にある。

公同の集会は今日の教会では、主日礼拝・祈祷会・地区会・家庭礼拝・各種集会であるが、主日礼拝をのみを重視すると言うことでなく、隠れた所から見ておられる神に喜んで頂く為にも、公同の各集会をも敬虔さと厳粛さを持って守って行かなければならない事を告白している。

 

 

 7節   安息日について

安息日理解については、大きく分けて二つの考え方がある。一つは、ピュー

リタン的見方であり、二つは、カルヴァン的見解に立つ大陸的見方である。前者は、主の日は旧約の安息日と同一であり、土曜日を安息日として継承した。

後者は、主イエスキリストの復活された日曜日を安息日とするものである。カルヴァン的見解では、「十戒の四戒の儀式的部分は、イエスキリストの到来と復活によってすでに廃止されている。神がしめされた霊的安息は我々の罪深い生き方の中で、一日を個人的瞑想と悔い改めと礼拝をもって神を崇めればよい。そして原理的には、日曜日でもなくてもよい」としたのである。或る人が、「カルヴァンは日曜日でも礼拝の後にボールを蹴っていた」と揶揄したというが、彼自身「商人が日曜日に店を開けていたら、どうして教会にいけるか、彼等は神の恵みから落とされていいのか」と日曜安息を守ったとされている。今日の課題は、曜日の問題でなく信仰者としての主日礼拝の守り方とその生活態度にある。信仰者は、朝の礼拝にだけ出席すれば主の日の義務を守ったから、残りの時間については、とやかく言われたくないと解釈している。それ以上礼拝をする事無く、一日を教会の為に、また瞑想の為にとする事無く、たんなる休日になってしまう事である。だが実はこれを批判するのでなく、その根底に礼拝を単に義務化している、信仰者の心の奥底にある思いと誤りを指摘しているのである。

安息日理解は、契約的贖いにおいて表現されている神の恵みから切り離されたり、律法主義的な事柄として理解されてはならない。あくまでも創世記でいわれている神の六日にわたる創造の御業の後に、安息されたという模範を示され、その御業をイスラエルの民の記憶に留め様と意図されたのであって、戒律的拘束を意図されてはいなかったのである。むしろこの規定があったからこそ、使用人や奴隷にもその過酷な環境の中で休息が与えられ、安息年には耕作地さえ休息が与えられた。また負債も許され貧しき者への社会福祉政策として用いられていた。また他の重要な祝祭日や断食日には労働から解放され休息を与えられていたのである。この事を正確に理解していない者が、安息日理解について、頭で考えた理屈を展開しているに過ぎないのである。これ以外に終末的安息については、32章、33章で学びます。

 

 8節   安息日の守り方

イエスキリストの復活以後は、安息日は日曜日になりこれを主の日とした。

これはキリスト教安息日として世の終わりまで継続されるが、この安息日は、平日の仕事からの聖い休息であり、娯楽にうつつを抜かすのでなく、全て神の栄光を表す事の出来る様に、環境を整え、心を整えて、安息を守るのである。そして終日教会にあろうとも家にいようとも、主の名を崇めたてまつらねばならない。「止むを得ない」とは、軍隊・警察・消防等々の公的勤務についている人であり、「慈善の義務」は、社会福祉の業を担っている人々例えば、要介護者等の世話をしている人達をさす。現代は確かに日曜日に働かねばならない人達がとても増加している。教会は、当然その方々に礼拝の機会を提供せねばならない。時間別礼拝、平日礼拝、早朝礼拝、祈祷会、聖書朗読会、初心者講習会等を、定期的に開催し様々の事情の中にある方々を、教会に結び付けていかねばなりません。

 

    第二十二章 合法的宣誓と誓願について

 

序.

この章は現代の日本の様な環境にあっては、むしろ異質な告白に思える。当時は、国家と教会が一体であったので、その秩序を維持して行くのに市民に宣誓が、頻繁に求められていたので、この章が告白されたと思われる。マタイ5:34で、「一切誓いを立ててはならない」とイエスキリストが言われているので、この聖句との間に立って悩む市民に対してのものであったと思われる。歴史的には、再洗礼派(アナバプテスト)とクエイカー教徒はこれを根拠に、徴兵の際の国家に対する忠誠の誓いを拒否し、多くの犠牲を払った。

 

 1節  合法的宣誓

合法的宣誓は宗教的礼拝の一部であって、宣誓の時には断言的誓い、約束的

誓いの証人となって下さるように、神に願い、是認して下さるように、神を呼び求めるのである。これは旧約の時代に神御自身が民に対して幾度も、宣誓して下さり励まし、救って下さった事を思い起こしている。ヘブライ6:13

 

 2節  合法的権威

神の名によってなす宣誓は合法でなければならず、常に恐れと尊敬を持って

神の名を用いなければならず、それ故、十戒の第二戒違反にならないように注意せねばならなりません。また他のものの名によって誓う事を禁じられている。

2コリント1:22 そして合法的権威に従う事を告白しています。

私達日本人は、無宗教による宣誓を司法の場において求められる事がありますが、あくまでもキリスト教良心に従ってなさねばなりません。それがもし、異教的慣習から強制されるものであれば拒否せねばなりません。そして宣誓は、濫りに軽率に行ってはならず、あくまで神の御心を考慮し聖霊の導きのままになさねばなりません。

 

 3節  宣誓の心得

明白な事であるが、宣誓する者はその内容が真実である事を確信していなけ

ばなりません。宣誓後にそれが虚偽であった時には、処罰を受ける事になります。また善でなく不正な事も宣誓出来ませんし、行えない事が分かっているのに、行う事を表明出来ません。また、合法的権威によって促された宣誓を拒否する事は、罪に定められるのです。現代では、公約と称して選挙前に政治家が選挙民に約束する事などは、正に罪に定められる行為であります。

 

 4節  正しい宣誓

「あいまいな言葉使いや隠し立て」とのこの意味は、当時ローマカトリック

では、信者の宣誓の時にあいまいな表現や、使う言葉の普通の意味を自分の心の中で、特定の意味に置き換えて宣誓する事を認めていたので、現実には嘘を宣誓しても教会はそれをよしと認めてしまったのであります。それで「罪を犯す義務」を時には容認していたのである。これは、マタイ14:7で、ヘロデがヘロディアに「ヨハネの首」を報償として与える事を誓ったように、罪を犯す事を誓ってはならないし、人にそれを強制する事をしてはならない。しかし、一度神の名によって誓ったなら、それがたとえ損失を招くものであったとしても、また異教徒・不信仰者との約束であっても、それを破る事は罪である。ローマカトリックでは一時期異端者との約束は破って良いとしていた。現代の社会的・経済的環境の中で、もし合法的な宣誓が破られる事となれば社会秩序に大変な混乱を引き起こす事になる。ほとんど全ての行為が契約に基づいているからである。

 

 5節 6節  誓願の性質と方法

誓願は宣誓とほぼ同じ内容を持つが、一つの違いは聖書においての誓願は神

に対してなされる約束である。教会で行われる洗礼式・結婚式・就任式等に於ける誓約は、実質的に神に対してなされる誓願である。誓願は一方では、神への感謝と、献身の形として為される。また神の御心と神が我々に課しておられる義務とに反する誓願は無効であり、誤りである。

 

 7節  してはならない誓願

ローマカトリックの教皇主義をここでは批判している。自分の能力や、出来

ない事を誓ったり、清貧への誓願、終生の独身の誓願、キリストの花嫁としての誓願、修道規則への服従等を、カルヴァンは「悪霊への献身」と称した。

絶対的な権威者としての教皇は、その地位の売買や世襲制により著しく堕落した時期が続き、修道院の中だけで辛うじてキリスト教が守られたのである。いまだにローマカトリック教会は、第二バチカン公会議で是正されたとは言え、いまだ迷信的な慣習を引き継いでいる。

 

    第二十三章  国家的為政者について

 

序.

教会と国家が正しい関係を保ち維持して行くには、歴史的にも長く複雑なも

のがあった。中世では、カノッサの屈辱(AD1077)のように国家が教会に屈服した時もあったし、国家が教会に対して至上権を持った時もあった。この様に、教会と国家の間には相互対立関係と依存関係があったのである。そして、両者は夫々異なる別々の権能でありながら、神が双方の主権者である。

 

 1節   神は国家と教会の主権者である

「神が国家的為政者を任命された」と書かれているが、これは、国家は教会

と同じく神的起源をもつと言う事である。それ故、国家は神に対する責任を持っている。この告白が作られた当時の英国では、国家は教会に敵対するものであり、必要悪であるとする人々がいたので、国家も神的起源をもつものとして強調し、それらの考え方を是正したのである。そして国家の正しい権能は、公共の善の為に行使され、正当なる法律に基づいて正義と平和の維持を果たす事であるとした。一方で、国家は権威だけではなく、「剣の権能」を保持し社会の秩序を守り、その正義を実行する物理的力をも持っているとする。これは、軍隊・警察・国境警備・消防等を含んでいる。しかし、歴史の中ではそれが誤用され、腐敗し、民への圧制と迫害、また独裁政治の道具とされた事もあった。

 

 2節   キリスト者は為政者になれる

この当時は、キリスト者が政治に参画する事は「悪」であるとする見方があ

った。それは、政治はすべて妥協の結果にて進められるものであるから、キリスト者が神から与えられた規準の価値を低下させてしまう事になると言うものであった。これに対して、告白では政治的統治の任務を受ける事は「合法的」であるとした。確かにこの現世は罪と悪に染まっているとしても、現実に生活をして行かなければならない所であり、かつ神が造られて社会でもある。ですから信仰者は、そこから逃避する事無くイエスキリストから与えられた、使命をこの世で果たさねばならないのです。そして人間に関わる全領域にイエスキリストの権威と主権が行き渡っている事を社会に知らしめねばなりません。その為にもキリスト者が、為政者になる事は必要なのであります。

「正しいまた止むを得ない場合には、合法的に戦争を行う事もありうる」これは長い間、論争の種にもなってきた告白である。字句からは、正しいと判断されるのは神であるが、キリスト教国同士で戦う時には神はどちらの味方をされるのだろうか。どのような時に「この戦争は神の御旨」であると判断出来るであろうか。戦争につながる要因には、単に国益を守ると言うものから、為政者の心の動きからも起こされる時もある。この告白は、決して戦争への勧めではなく、キリスト教を信じる為政者は、あらゆる政治的手段を講じて戦争が起きないように外交努力によって解決せねばならぬ事を暗示している。

ローマ13:4~7 参照

 

 3節   国家と教会の関係

この3節は、8行目で括弧付き文章となっている。これは、7行目までの告

白をAD1787年のアメリカ長老教会が、改訂・補足したものであり、1950年の日本キリスト改革派も、こちらを採択した。その理由は、7行目までの告白は、当然英国の事情を反映していて、それは、国王は教会の首長でもあったからである。それで、国家と教会の一体を告白しており、国家と宗教の分離は無かったのである。後半は、国家と宗教の分離を告白しており、現代に信仰生活を送る者は、こちらを告白せねばならない。

国家的為政者は、信仰上の事柄には少しも干渉する事は許されず、特定の教派を優遇せず、信仰の自由を保証し、世間の迫害から教会を守る事を要求している。教会内の訓練や戒規等あらゆる正当な事項に、法律を持って干渉したり、妨害したりするする事、また社会の中での無信仰者を差別したりする事の無いように、為政者に対して彼等の義務を正当に果たす事を求めている。そして基本的人権を擁護し、信仰ゆえに宗教的諸集会が迫害されない様に、適切な手段をもって配慮する事は、国家的為政者の義務であると告白している。

 

 4節   国民の義務

前節で政教分離を明確にし、それでは信仰者が国家的為政者に対する関係は

どうあるべきなのかを告白している。今日の世界は無信仰者・異教の民が為政者となっている国家が数多くある。教会員はその中にあっても、その者の為に「祈り」「尊び」「命令に服従」「権威に服す」しているであろうか。この点が、今日の信仰者の最も大きな課題である。たとえ無信仰な為政者であっても、正しい法的権威は尊重し、その権威に服する事は信仰者の義務であるし、納税の義務をも果たさねばならないとした。要するに、為政者をその人格や教養や資質で推し量るのではなく、彼等の公的な職務と機能が効率的に果たされないと、我々の社会生活は正常に機能しなくなってしまうからである。

歴史的にローマカトリックの教皇は、国家的為政者を下位に置き任命解雇を思いのまま為して来た。この告白はその事にも言及し、教皇と教会の国家支配をも否定している。教会は、政治活動に携わるべきではないが、国家が道徳的な事、霊的な事に、干渉するような事があれば積極的に発言はして行かねばならない。真に国家的為政者達が、己の正義と良心にかけて国家を正当に経営していくかどうかを、神ご自身の法に照らしてキリスト者は、「見張り」の役割を持っている。

 

   

            第二十四章  結婚と離婚について

 

序. 

創世記2:18「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われ女を造られた。そして男は父母を離れて女と結ばれ二人は一体となる。

このように結婚は、神によって創造の秩序として定められ、神との契約行為でありますから、人の力でこれを離す事があってはならないとしています。

1コリント7章では結婚と離婚について語られています。

 

 1節   結婚は一夫一婦である

現代の文明国では、一夫多妻、一妻多夫何れもが違法である。しかし、旧約

時代や現代でも一部の地域ではこの限りではない。アブラハム・モーセ・ダビデ・ソロモン等偉大な者達でも、この規定は守られなかった。新約時代になって、この規定はキリスト者の中で一般化していった。また私有財産が明確な法体系によって庇護される様になってからは、この傾向が一段と進展して行った。

原語では、「一体」の体は、人格を表現している。この意味でも、結婚は肉体的な結合と言う事だけでなく、人格的な一体であり、深く互いを尊重しながら共同の生活をする事である。聖書には多くの妻や夫を持つ事を禁じる聖句はないが、人格的な結合と考えた時には、正に一夫一婦でなければならない。

最近の海外宣教の中で、多くの悲劇が起きている。アフリカやインドネシア等で、一夫一婦制を教える事で、本妻として選ばれた女性以外が殺害されたり、路頭に迷って乞食になってしまう事である。本来貧しい地域では、一夫多妻が一種の社会福祉政策でもあったが、これが禁じられる事で、この様な事件が頻発したのである。改宗者一人で多くの犠牲者が出ているのである。この事が、真に神の目に適った事であるのか、そうでないかはキリスト者に突きつけられた課題である。

 

 2節   結婚の目的

結婚はお互いの助け合いの為に、神によって定められた制度である。そして、

嫡出子(合法的結婚を意味している)による、人類の繁殖と聖い子孫による教会の増大の為に、また、汚れの防止の為である。

① 相互扶助  単に家庭だけでなく、社会的原則である。

 人類の正しい繁栄のため

 教会は契約の子等によって継承されていく

 性道徳の乱れの防止である

 

 3節   信仰者同志の結婚

自分の正当な判断で同意し得る結婚は、いかなるものでも合法的である。そ

して主にある結婚こそが信仰者の義務である。従って、改革派信仰を告白する者は、無信仰者・教皇主義者・偶像礼拝者と結婚しないように勧める。また敬虔な信者は、日常生活で悪を行う者、異端の信奉者と結婚してはならない。

日本の様な、圧倒的に信仰者が少ない所ではこの告白通りにしたら、一生結婚相手が教会内でも見付からない事があろう。「恋は盲目」とする考え方もあるが、信仰者で無いと言う理由で互いに愛し合っている者の間を裂く事は出来ない。信仰者である者が、将来連れ合いを教会へ導き伝道するという思いで相手と結婚し、その目標を掲げて生活すればよい。必要な時に御霊が働いて下さるからである。また結婚の目的の中に、性的欲求の満足がある。これも最も大切な目標である。ただ世の中はこれだけの理由で結婚する者達は多いが、信仰者は、性的な結び付きをあくまでも相手との人格的結合の一貫である事を考え、常に相手に対する思いやりで、また生まれて来る子孫に神の存在を教える喜びを得る為にも、必要な事であると自覚せねばならない。統計によると、「良き結婚では性的関係が占める位置は8%、悪い結婚では80%」となっている。性的交渉は、愛の表現の一つであるが、愛そのものではないし、愛の代用品でもない。教会にも、様々な理由で結婚しない人達がいる。この人達も、霊的な兄弟姉妹の交わりの中で、三位一体なる神との愛の交わりにある事を、認め、確信せねばならない。

 

 4節   禁じられている結婚

結婚は神の言葉で禁じられている近親血族結婚、近親相姦によっては、如何

なる法律をもってしても、あるいは当事者の合意があったとしても認められす、神の怒りを招く。レビ記18章で「厭うべき性関係」について神の掟が書かれているが、この様な姦淫や淫行は現代でも極めて機会が多く、また誘惑の種である。また性そのものが商品化し、金銭との交換において売買されている事は、はなはだ由々しき事である。男女にとって、自身の貞潔を淫行によって失う事は、それ自体罪である事を、この告白から学び実生活で活かさねばならない。

この節の4行目以降は、AD1886年にアメリカ長老教会が削除したので、

日本キリスト改革派教会も、1963年の大会において同様に削除し、告白していない。それは、自分の妻が死んだ時その姉妹と結婚出来ないのは告白の通りであるが、夫が死んだ時夫の兄弟とそれまで結婚出来なかったが、この改訂によりそれを可能としたからである。

 

 

 5節   離婚について

結婚を約束した後、それをもって性交渉を強要したり、その前の淫行の事実

が露見した時、結婚の約束は解消できる。結婚後の、姦淫は無実の側が法的手続きをもって訴訟する事が出来る。離婚が正当に認められた時には、夫々の国家の法的手続きを経た後、一定の期間をおいて他の人と再婚出来る。

 

 6節   離婚の正当理由

正当な結婚が正当な理由で解消できるのは、次の二つの理由による。

 一方の側の不貞・姦淫

 相手を見捨てて、どのような手を尽くしても、復帰を最後まで拒む時。

(故意の遺棄)

いままで、聖公会とローマカトリック教会は離婚と再婚を認めて来なかったが、今回のチャールズ皇太子の不倫とその相手との再婚は、多くの人の眉を顰めさせたが、国教会の首長たるエリザベス女王はこれを認めた。聖公会のこの問題に対する態度に変化があったと捉えざるを得ない。事実離婚の分野では、それを認めない事による悲劇が多発している。家庭内暴力、アルコール中毒、麻薬中毒、AIDS、神経分裂病、心理的残虐行為等で、離婚できない故に多くの悲惨と悲劇の温床になっている。この事にキリスト者は聖書の光に照らして、この問題をより一層吟味し、現実生活の上で生じている人間の罪の姿を、思い起こすべきであろう。

 

 

    第二十五章  教会について

 

 序.

特に現代ほど、この教会論についての考察が求められている時は、中世を除いてなかったのではないか。確かに初代教会の時のような熱気と精神は、衰えたとは言え、イエスキリストの体なる教会を建て上げて行くことは、何時の時代でも信仰者の使命であるにも拘らず、特にヨーロッパでの教会の衰退は目を覆うばかりである。教会が、歴史的建造物としての役割しか果たせず、本来の機能が果たせなくなっており、一部の教職は国家公務員としての地位に安逸の夢をむさぼっている状態である。辛うじて地域コミュニティーの一つの機能を果たすだけになってしまっている。それで、この時代こそウェストミンスター信仰告白の重要性を、再認識しなければならない。

 

 1節   見えない教会

公同の教会は、歴史の中でも普遍的な教会を示し、イエスキリストを離れて

は教会は成立しない。イエスキリストは教会の頭であり、過去・現在・未来に渡って教会の体でもある。教会は、イエスキリストに接木され、彼によって統一されて存在するのである。目に見えない教会と、目に見える教会といって区別したのはアウグスティヌスであり、これを用いた宗教改革者達は、ローマカトリックが目に見えるローマ教会にこそ救いがあると言ったからである。確かに、教会には建物、会員、礼拝、奉仕、位階等目に見える側面があるが、この教会の中で信仰を告白したからと言って、神の目から見たら本物の信仰者で無い者たちがいるのである。ですから教会の真の霊的生命は目に見えず、神にのみ知られているので、目に見えない教会にこそ普遍的教会の名が与えられるのである。この一つに集められた教会に所属する者は、過去・現在・未来の教会員とその契約の子供達である。そして教会の一致は、御言葉の説教・聖礼典・祈りにおいてその標識を明白にする。

 

 2節   見える教会

「福音のもと」「律法のもと」これは新約時代、旧約時代と言われているものであり、旧約時代には見える教会は、選民たるイスラエル民族に限定されていた。新約時代は、世界的な広がりの中での見える教会である。ここでは、真の信仰を告白する者と、その子供から成り、主イエスキリストの御国、神の家、そこに集まる者は霊的な家族である。そして聖霊の恵みの手段を通して、つまり御言葉の説教、聖礼典を用いて我々に適用される。

 

 3節   普遍的教会

イエスキリストの体を建て上げる為に、選んだ者を召し、召した者を義とし、

栄光を与えられた。召された者、御言葉、諸規定において、また約束に従って普遍的公同教会は秩序を持って支えられている。この教会には、イエスキリストは世の終わりまで聖霊において臨在され、全てを統治されておられる。

 

 4節   公同教会の純粋性

この公同性は本質的には同一であり、「見える」「見えない」という二種類の

教会が存在するのではない。本来唯一なのである。従って個々の教会は「見える公同の教会」であり、同時に「見えない公同の教会」である。また教会は個人的な敬虔の程度が問題になるのではなく、集団的な礼拝に対する行為の問題として、その純正さが問われる。「その純粋さに相違がある」これは、純粋さを現すのは、神の御言葉が説かれ、教理が教えられ、規則が守られ、福音の光が教会内に輝いているか、各種の公的集いが定期的にもたれているか、それを維持するのに教会員が熱心にそれを守っているかが、判断の基準となる。教会は困難な時も、順調な時もこの純粋性を守り、神の御言葉に聞き従い、不誠実への誘惑を断ち切って行かなければならないのである。

 

 5節   教会の堕落

キリスト者個人と同じ様に、教会の中に腐敗と誤りは常に持ち込まれる。そ

の面で完全で純粋な教会は、地上で実現する事はない。ローマカトリックでは、目に見える典礼が何か神秘的で、その次第が秩序あるように見えても、一人びとりの信仰告白、信仰の態度が充分吟味されているとは限らない。そこで行われる礼拝も、真に神の栄光が崇められているかどうか、私達の目では判断つかない。そして、ある教会は偽善と腐敗と悪徳の教会として堕落したのである。

1コリント5章 参照  しかし、この地上には御旨に従って純粋さを保持しようとした教会は、歴史の中では少なからず存在していた。

 

 6節   教会の頭はイエスキリストである

1節で、「頭なるキリスト」と告白されているので、主イエスキリストのみが

教会の頭である。もし頭が二つあったら奇形である。これは明らかにローマカトリック教皇を批判している。時には、信者にとって教皇は「ポープ」意訳すると「お父さん」と呼ばれ天の父と同一視する誤りに陥っていた。むしろ神より、慈愛に満ちた存在として慕われていた事もあった。これに対して、この節でははっきりと「非キリスト」「不法の子」「滅びの子」と称している。しかし、これは中世から近世に至るローマカトリック教皇を非難しており、第二バチカン公会議で彼等自身がこの点を悔い改め、信者に聖書を読むことを勧め、御言葉の説教をするようになり、聖書学の研究も進み、それ以後多くのカトリック神学者が重要な神学的貢献を果たす様になった。もともと世界信条を共に告白する間柄であり、プロテスタント教会も西方教会の一員であるので、新しい時代に於ける双方の協力関係を構築していかねばならない。その意味では、この最後の一行は、その内容を充分に理解して告白されねばならない。

 

 

     第二十六章  聖徒の交わりについて

 

 序.

教会と聖徒の交わりは、ギリシャ語でコイノニアと表現されている。「共に預かる事」「参与する」が本来の意味であり、信仰者にとってはイエスキリストと共に参与する事を示している。ローマカトリックでは、これを「死者との霊的交わり」と、違う意味をこれに加えていたので、この誤りを排除した。同時に教会においては、現実に、信徒同志の横の交わりが存在している。それ故、教会においては、夫々の賜物を用いて信徒が相互の益の為に公私にわたる義務を果たして行かねばならないのである。

 

 1節   キリストとの結合

ここでは、二つの側面について告白している。一つは、垂直的なイエスとの

交わりである。二つは、水平的な、霊的な兄弟姉妹としての交わりである。神は、創造の前からイエスキリストにおいて選び、神の秘められたご計画の下にイエスキリストに全人類をその御手の中に包含されることを任された。そこから彼を信じる者に義と命をもたらされたのである。この意味においても、信仰者が招かれている教会は、聖霊によってイエスキリストに結ばれているのである。そしてイエスキリストと共に十字架にかかり、彼と共に復活し、天にあって彼と共に神の内に隠されている。 コロサイ3:1~3

「愛において互いに結合されて」 この愛は他の人々に対する外向的なものであり、その本質は「自己を与える」事である。そして、相手の事をおもんばかって、「お大事に」と言える心である。そして自己中心的な思いを捨て去る事である。教会においてこの愛は、「相互の賜物と恵みを分かち合い、相互の益に貢献する」事である。もし、自分の賜物を己の誇りの為に隠しておくなら、聖霊が結ぶ実としての業が、神の意志に反して使われないと言う事であり、イエスキリストの愛の掟に違反する。相互依存の関係であるから、公私に渡って教会員としての義務を果たさねばならない。教会員一人一人がイエスキリストの体につながり、教会を建て上げる枝だからである。 1コリント12:12~31、 ローマ1:11~15

 

  2節   霊的奉仕の実行

教会に於ける交わりは、霊的・物質的側面がある。前者は、皆と共に礼拝に

預かる事であり、後者は、例えば献金において教会と貧しい者を支えていく事である。 ローマ15:25~33 参照  今日のプロテスタント教会は、この点で反省すべき課題を抱えている。それは、自分の教会だけでいいとする内向的な教会が存在する事であり、また金銭的に支える事で、事足れりとする思いである。初代教会の人々は地域は離れていても、経済的に苦しい所には積極的に献金を奉げ、体を運び、援助の手を差し伸べていた。ところが、我が教派でも戦後外国ミッションにより援助が与えられ、教会発展を見ながらも、自ら外国へ出て宣教活動をする事は無かったし、外へ出た宣教師も大変少なかった。 真に「受ける教会より、与える教会」となりたいものであるし、「主イエスの御名を呼ぶ至る所の全ての人々」に、宣べ伝えて行かねばならない。

 

 3節   秩序ある交わり

この節では、二つの事が記されている。一つは、イエスキリストと信仰者と

の絶対的性質の相違を主張し、二つは、私有財産制の肯定である。前者では、「イエスキリストは人の中の最高人」でなく、信仰者は「プチイエスキリスト」でもない。イエスキリストの神性に信仰者が関わるのでなく、イエスキリストと神との同質性と、イエスキリストの人性と私達の性質との同質性が根本である。

私有財産制は教会の歴史上決して否定された事はない。使徒言行録4:32~37までを読んで原始共産主義の雛形と言う者がいるが、この人々は経済学の知識が無い人々であり、聖書で書かれているのは生産手段の所有形態に於ける共産主義とは全く違うものである。信仰の結ぶ実としての献金をしていた事の証であり、何等の強制力も働いていない。教会に於ける交わりは、私的な財を奪うものでもないし、財産の保持と管理は全く個人の自由意志に依るものである。共産主義と絶対的個人独裁政治を排除するのがこの告白の狙いである。

 

            第二十七章  礼典について

 

 序.

礼典の理解において教会史なかでは、何回も反目と分裂が起きた。それは、この礼典についての解釈が間違うと福音の確信がずれてしまうからである。礼典(サクラメント)はギリシャ語の「神秘」がラテン語に訳された際に、サクラメンタム(聖なるものとして分けられたもの)と理解されたのである。そして、ローマカトリック教会では、最初に洗礼と主の晩餐にこれが適用されたが、

他に五つが追加された。叙階・堅信・告解(ざんげ)・結婚・終油である。これに対し、宗教改革者達は、洗礼と主の晩餐(聖餐)だけであると決めたのである。理由は、イエスキリストによって制定されたのはこの二つだけであった。

 

 1節  礼典の定義

礼典は恵みの契約の礼典である。そして「しるし」と「印証」と言う言葉は

礼典の意義を総括するもので、イエスキリストが直接定められた事で、権威と根拠がある。その目的と効用は以下の通りである。

 イエスキリストと彼の恵み(彼の人格・救贖・執成し)の表象である

 信仰者の礼典を受ける権利の確認

 信仰者と未信仰者との区別

 神への奉仕に信仰者を従事させる

礼典は単なるしるし、表象にすぎないのかと言う点に関して、多くの議論と誤解があった。それは御言葉と礼典との関係の問題であった。ローマカトリックは礼典を、秘跡と呼び、恵みはこれ等を通して自動的に注入されるので、秘跡(ミサ)を受けるだけで良いとしていた。そしてこの神の恵みのしるしが、自動的に恵みを受けたと理解されていた。一方で、礼典は恵みの手段ではないとするツイングリー派の理解もあった。礼典は御言葉の中にあるメッセージを象徴するだけの価値しかなく、イエスキリストが果たして下さった業をただ想起する役割しかない無いとした。ところで、カルヴィン派とその後の長老・改革派では、礼典は象徴的なものであると共に約束的なものであり、信仰者はイエスキリストにあずかっている事を確信・確証出来るとした。イエスキリストが定められたこの礼典は、「水・パン・ブドウ酒」という目に見える媒介を通して、信仰者の心に働きかけ深く信仰を確信させるものである。御言葉の説教は、聞く事の出来る神の言葉であり、礼典は目に見える事の出来る神の言葉である。

そして聴覚と視覚を通してより一層神の恵みを感得出来るのである。そして、前者は信仰を生み出し、後者は信仰を強め聖化に至らせるのである。そして、礼典は信仰者と不信仰者の区別を明確にし、不信仰者がその礼典に預かる時を祈りを持って待つのである。

 

 2節  しるしとは

日常の生活で我々はしるし(シンボル)を良く使っている。例えば十字架を

見ればそこに教会があるのが分かるし、地図の上で十字架があれば病院であるし、バチカンと言えばローマ教会・法王を指す。この様に、言葉や図表や形である特定なものを理解する上に、しるしは必要である。

この様に「洗礼」も「再生の洗い」とか「新に造りかえる洗い」テトス3:5 「水の中を通って救われた」1ペテロ3:20 と表現されています。またパンを「イエスの体」と表現しています。このように洗礼・聖餐には、しるしとして現されている実体との間に、聖別された後に霊的な関係が生じるが、しるしは実体そのものではない。また神の恵みが、その実体の中にあるのでもない。教会の中に、「しるしは、霊的実体の物資による具体化」とする所があるが、これは誤りである。

 

 3節  礼典の恵みと効果

「礼典で表示される恵みは、礼典の内にあるどのような力によって与えられ

るものではない」 即ち、礼典は自律的なものでなく、その中に何か魔術的な、

神秘的な力を内在しているのではない。神の恵みは、真にそれを求める者に対して自在に働かれる聖霊と制定の御言葉によって与えられるからである。信仰への真摯な思いの無い者が、ただ礼典に預かったからと言って自動的に恵みが付与される事はない。カルヴァンは、礼典を「道具」という比喩を使って説明している。どんな名刀でも、使い方を知らない者は、紙でさえ切る事は出来ないのと同じ様に、道具としての礼典は、それをご自身の目的の為に自由にお用いになる聖霊によるのであって、人間側の力には依らないのである。

 

 4節  礼典の執行者

ローマカトリックでは一時期礼典の数は30以上もあった。AD1545年

トレント公会議で七つと決定されたのである。これに対して、宗教改革者は洗礼と聖餐の二つを礼典としたのである。それはイエスキリストが制定されたからである。

またプロテスタント教会では、礼典は教会の諸規定によって任職された教役者が執行する事を定めている。これは礼典の正しい用い方と密接に関連しており、権威ある者がなさねばならないからである。

 

 5節  旧約時代の礼典

旧約時代において神は、割礼と過ぎ越しを制定された。これは新約時代には、

洗礼と聖餐となった。旧約時代は肉的であってまったく新約時代と違うと主張する者がいるが、その意義においては双方とも全く霊的であり、本質は同一である。

 旧約では、礼典はイスラエル民族のみであったが、新約は全ての民族を含み普遍的である。

 旧約では、血をともなったが、新約では信仰者の血は伴わない。

 旧約の礼典は、暫定的でありメシアを待望していたが、新約ではイエスキリストが来られ、恒久的であり、イエスキリストの業を指し示している。

 旧約の礼典より、新約の方がイエスキリストにおける啓示と、豊かな聖霊の注ぎにより、もっと豊かに神の恵みが約束されている。

 

   第二十八章  洗礼について

 

 序.

洗礼は、罪の悔い改めの伴うキリスト教会への一つの加入の仕方でもある。しかしながら、世間には通俗的な誤解があり洗礼を受けると何か神秘的な力が備わるとか、特別な力が付くと考えられていて、教会に無信仰な母親が来て自分の子供に洗礼を授けてくれるように頼まれる事がある。これは親がキリスト者にならなければ受けられない事であるし、また死の床にある者が悔い改めなしに、天国へ入る保証として洗礼を願っても受け入れる事は出来ない。決して聖書から離れ神の目的を逸脱した洗礼を授ける事はない。

 

1節  聖餐の制定

イエスキリストが十字架に架かられる前夜、体(パン)と血(ブドウ酒)に

よる礼典を制定された。そして、教会において彼が再び来られる時まで、守るべきものとされたのである。それはご自身の御業の記念であり、また犠牲による全ての祝福を信仰者に保証し、霊的養いと成長の為、そして彼の掟と命令を信仰者がより一層守る事が出来るように、聖化の道を聖霊によって歩む事が出来るように約束をされたのである。そしてイエスキリストとの交わりと信仰者同志の交わりの保証となっている。

洗礼の積極的な機能は、

  イエスキリストへの接木である

イエスキリストとの結合は、救いについての教理の中心であり、救い主イエスキリストから救いがもたらされる。

② 「再生・新生」であり、恵みの契約の証印である。割礼はアブラハム契約

  においても恵みの契約のしるしであった。「心の包皮を取りさる」(エレミ

  ヤ4:4)事であり、こうして新しい者として新生するのである。

③ 罪の赦し

用いられる水(黙21:6)は、赦しを意味し罪を洗い清める事である。洗礼はこの中心的な益と罪からの救いを表象している。そしてイエスキリストによって、「新しい命に生きる」ローマ6:4 こうして聖霊の御働きにより、日々聖化の階段を昇り御国へ至るのである。

 

2節  三位一体なる神の名による洗礼

「外的な品は水であり」とは、水の洗礼は御霊において与えられる内的実体

の外的で目に見えるしるしである。つまり聖霊の賜物の外的象徴である。そして、もう一つ洗礼は水が象徴しイエスキリストとの結合から生じる清めの意味もある。その執行者は、合法的に召された福音の教役者である。そして、三位一体なる、「父と子と聖霊の御名」において授けられる。 マタイ28:19

 

3節  洗礼の形式

ローマ6:1~11を解釈する者の中には、この箇所は罪に死に、洗礼によ

ってイエスキリストと共に葬られ復活したのだから、それを表す為に「体全身を沈めて」(浸礼) 一度死にそして復活する事を表さねばならないと主唱した。その代表がバプテスト派でありました。しかし、パウロは浸礼を意味したのではなく、洗礼それ自体はイエスキリストご自身に預かるものであり、「皆一つの体となる為に、洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです」1コリント12:13 「洗礼を受けてキリストに結ばれた」ガラ3:27 この事をパウロは主張したかったのです。ですから洗礼は、一連の受難劇を表象するのでなく、彼に繋がる事は、その形式でなく水か象徴する現実の救いが問題なのであります。ですから、多くのプロテスタント教会では「水を注ぐ」「水をふりかける」いずれかの方法で洗礼を執行しています。

 

4節  洗礼の主体

この節はやはりバプテスト派が主唱する「幼少の子供に信仰告白は不可能で

あるから、それを告白できる年齢に達した者だけが洗礼を受けられる」これに対して論じている。この経緯を見てみますと、バプテスト派は当時英国国教会が行っていた親が信仰告白をしていようといなかろうと、無差別な幼児洗礼をしていた事に対する抗議でもありました。この背景には、キリスト教国に生まれた者は、単純に授洗の資格があるとされていたからであります。

これに対して改革・長老教会では、信仰告白の前に信仰教育を受けた成人者に、子供がいれば彼等も親と一緒に洗礼を受ける資格があるとしたのである。  新約聖書には、子供に洗礼を授ける様にとの命令はないが、これは子供達が洗礼を授けられなかったと言う理由にはなりません。旧約聖書にても子供達を恵みの契約に入れ割礼を施していたからであります。1コリント1:16 ステファナ家でも、使徒16:15、33~34 リディア家、看守の家族でも、全員が洗礼を受けたのであるから、当然子供もその中に加わり洗礼を受けていました。また当時は一家の家長が決定した事は、家族全員がそれに従うのが習慣でありましたから、子供も洗礼を受けたのは間違いない事であります。同時に、神は信者の子供に聖霊と言う契約の約束をも与えられていたのであり、マルコ10:14で、「子供の様に神の国を受け入れる人でなければ、入る事は出来ない」を解釈して「子供の様に無邪気で謙遜な者」としてしまうが、イエスキリストは同時に本当の子供を指していたのであります。そして神の国が、契約の子等のものであれば、そのしるし、証印としての洗礼を受けた事は真に相応しく真実でありました。

イエスキリストと共に実現した新しい契約は、古い割礼を伴った契約より、はるかに豊かであり、聖霊が一層注がれているのであります。古きから新しき契約になったからと言って、恵みの契約の内容が変化したのでは無く、ただ一つの契約、一つの教会、一人の救い主が存在するのであり、神は割礼から洗礼に変更されましたが、全く契約の内容は変わらず、統一性が保たれているのであります。 

エフェソ6:1~4「主がしつけ諭されるように育てなさい」

パウロはこのように勧めております。信仰者としての親達がその子供を、躾け、諭し、教育し、親たる義務を果たすように求め、真の教会を立て上げる事を命じております。

 

5節  洗礼の必要性

「この規定を侮り、なおざりにする」 とは、当時あった合理主義的解釈や、

迷信的な解釈を排除しています。人間は、このような宗教的しるしを見る時に必ずどちらかの思いにとらわれるものであります。近代的な理性や知識の目で見て解釈しようとしたり、古代から伝わる何か魔術的な神秘的な力が働いているとして、ただ単にそのしるしに盲従する事でそれを理解しようとしたりするのです。信仰者はこのどちらも排除して、この洗礼は神の御言葉である聖書の中に記されて、イエスキリストの命令である事を確認しなければなりません。

ローマカトリックは、洗礼を受けなければ人は救われないとしていました。しかし、恩恵の手段として定められた洗礼は、聖霊が働いて下さらなければ何の効果もないわけです。ですから洗礼を御言葉にしたがって正しく用いて神の栄光を顕して行かねばなりません。洗礼を受けたからといって、それが即救いに至るのでなく、やはり聖霊に導かれて聖化の道を辿り、最後の瞬間に救いが完成するのであります。

 

6節  洗礼の効果

洗礼の効果は、その時だけのものではありません。その恵みは、信仰者の全

生涯に及び、その全人生を包むものであります。神の契約の中におかれ、洗礼の誓約を真の人生の中で、聖霊に導かれて具現化して行く事が必要なのであります。(大教理問167以降を参照して下さい) 

 

7節  洗礼は一回だけである

聖書には洗礼が同一人に対して何度も行われたとする表現は無い。洗礼は信

仰者が罪を犯す毎に授けれるのではなく、公に信仰告白を成した時一回でよい。

洗礼は、霊的な再生・新生を意味するので、一度新たに生まれ変われば良いからである。また洗礼は教会への加入儀式であるから、一回でよい。教派の中では、やり直しを求める所があるが、これは洗礼を迷信的・神秘的なものとして理解しており誤りである。

 

      第二十九章  主の晩餐について

 

 序.

宗教改革者達は、ローマカトリック教会のミサに対して反対して来た事は既に学びましたが、特にこの聖餐についてはプロテスタントの中でも、互いに乗り越える事の出来ない対立を生んでしまいました。AD1529年のマールブルグ会議では、ルターとツウィングリーは最後の聖餐論で分裂してしまい、その後の不幸な歴史の始まりとなってしまいました。そして、改革派内ではツウィングリーの後継者であるブーリンガーとカルヴァンが手を結びドイツ語圏とフランス語圏での改革派が統一され、ルター派との決定的な溝が出来てしまいました。ローマカトリックはイエスキリストの体と血は、パンとブドウ酒の中に臨在しているので聖別の祈祷によりパンは体に、ブドウ酒はキリストの血になると主張しました。(化体説)ツウィングリーは聖餐において、イエスキリストは象徴的に記念として臨在すると言い(象徴説)、ルターはイエスキリストご自身がパンとブドウ酒の中にまた下に臨在する(共在説)と言い、カルヴァンは聖霊においてイエスキリストが臨在するとしました。(聖霊臨在説)

 

 1節  主の晩餐の目的

イエスキリストは、十字架の前夜過越祭りの夜に、真の最終犠牲の子羊として、「引き渡された」のであります。この晩餐の目的は以下の通りであります。

 世の終わりまでこの礼典を守る為

 ご自身の犠牲を世の終わりまで記念する為

 犠牲の祝福を信者に保証する為

 信者の霊的養いと成長の為

 イエスキリストへの全ての義務を、信者が、より一層果たす為

 イエスキリストとの愛の交わりの為

 信者相互の交わりの為

 この目的の為にイエスキリストは、主の晩餐を制定されました。1コリント5;7「キリストが、私達の過ぎ越しの子羊として屠られたのです」

そして、1コリント11:23~26、ルカ22:19「私の記念としてこの様に行いなさい」と言われています。主の晩餐は、ご自身の犠牲において獲得された豊かな恵みと救いを、あまねく広く多くの信仰者に適用されるようにイエスキリストは願っておられたのです。そして、目に見える型でその祝福を示されたのであります。洗礼は一回限りでありますが、この主の晩餐は継続的に行われ、私達のこの地上に於ける生の中での霊的成長に益となる

ものであります。信仰者が主の食卓を囲む時、それは互いの霊的交わりを強化し、互いの成長を促進するものでもあります。こうして主の聖餐は、イエスキリストと結ばれるばかりでなく、信仰者同志の結びつきともなるのであります。教会は、そのように「呼び出された者同志の交わりの場であり、聖餐の場でもあります。来るべき新天・新地にて神と共になされる祝宴の予表でもあります。

 

 2節  主の晩餐は生け贄を奉げる事ではない

ある時期から、主の晩餐をイエスキリストが再び生け贄として奉げられる事

であるとの誤解がローマカトリックで広まりました。この事に対して明確に否定をし、「どのような現実の犠牲がなされるものでもない」と告白されました。

イエスキリストは、「ただ一度だけ十字架に奉げられた事の記念」「霊的奉げ物」としてなされたのであるから、ローマ教皇主義のミサがイエスキリストの再奉献であるとするのは、全くの誤謬であり、主の晩餐は、イエスキリストの犠牲の生け贄でなく、全くの恵みであり、罪人への神の賜物であります。この事に、信仰者は真心から讃美と感謝を奉げなければなりません。

 

 3節  主の晩餐の規程

神の御言葉の教役者には四つの規程が定められている。

 イエスキリストの制定の御言葉を会衆に告げる

 祈りを奉げ、パンとブドウ酒を祝福し、聖なる用途に用いる為、聖別する

 パンをとって裂き、杯をとり陪餐者に与える、この時、自らも預かる

 その時、列席していない者には与えない

「パンを取って裂き」と言う言葉は、ローマカトリックではイエスキリストの体を十字架に付けた事の証拠であるから、聖餐の毎に犠牲を捧げていると考えていた。しかし、聖書には「裂かれた」と言う言葉はない。KJV(この告白の証拠聖句はこの聖書である)「He brake it, and said ,Take ,Eat :」と表記されているのでこの告白では、「裂き」と言う訳語が当てはめられているのである。更に、イエスキリストは「その骨は一つも砕かれない」民数記9:12、ヨハネ19:36 との預言を成就したのである。KJVから読む限りにおいては、イエスキリストが祝福の祈りをした後に、パンを配る為になされた執行の言葉であり、体を裂くという文脈ではない。「二品を与える」とは、ローマカトリックでは、陪餐者にはパンだけ与え、イエスキリストの血となったブドウ酒が一滴たりとも床に落ちる事が無い様に、信者には与えず司祭が代表で飲んでいた。第二バチカン公会議で信徒に二品を与える事を許可したが、依然古い慣習が残り、多くの教会では司祭代飲が行われている。

「列席していない者には誰にも与えない」とは、当時のローマカトリックでは、死後の代理洗礼や、死者崇拝、臨終の床で悔い改めの無き者に対する聖餐授与と、魔術的な理解で聖礼典が行われていた。これをはっきりと否定している。プロテスタントでは、礼拝に出席出来ない信者の為に牧師と長老が複数で行って、聖餐式を執行する事は全く正当である。

 

 4節  禁止事項

これはカトリックのミサで行われている司祭の一連の儀式行為に対して明確

に否定している。

 一人で礼典を受ける事

 会衆に杯を与えない事

 品々(パンとブドウ酒)を礼拝する事

 崇敬の為に品々を高く掲げたり、持ち回ったりする事

 偽りの用途の為に保存する事

これらは全て、イエスキリストの制定に反している。

 

 5節、6節   化体説の否定

ローマカトリック最大の神学者であるトマス・アクィナス(AD1225~

74)が、「司祭が聖別の祈りをした瞬間、パンとブドウ酒の中で変化が起こり、実際のイエスキリストの体と血になる」(化体説) この教義をいまでも守っている。この誤りは、一つにはイエスキリストが、「取って食べなさい。これは私の体である」マタイ26:26 と言われた事をそのまま鵜呑みにしている事で生じている。そのままとれば、ご自身とパンとで二人のイエスキリストがそこにいる事になってしまいますし、イエスキリストはその時は、「これは私の体を象徴する」と言っているのであります。ヨハネ6:53~56では、「肉(体)と血を飲む者は、永遠の命を得、その人を終わりの日に復活させる」と永遠の救いを表現しています。現実に肉を食べ、血を飲む事は出来ないのであります。

この教義は、ローマカトリック内部でも第二バチカン公会議でも扱われ、パンとブドウ酒が肉と血になる事はないので、パンとブドウ酒に新しい意義を与えようとする動きがあったが、否定された。(意義変化説)この様にローマカトリックでは、聖餐式の時の崇敬の対象がいまだにパンとブドウ酒である。それで、ローマカトリック教会の中では、様々な迷信、神秘主義、偶像崇拝がはびこり、真の信仰の確信が生まれず、礼拝や礼典の性質が覆させられたままである。

 

  

 7節  主の晩餐は霊的である

ここではローマカトリックの化体説とルーテル派の共在説を否定している。化体説は聖礼典の本質を覆してしまい、二品はキリストの死とその益を示すものであり、決して肉や血になるものでは無い。そして陪餐者はイエスキリストの益を、信仰的に内的に受け取るのであり、肉的に身体的に受け取るのでは無い。そして、その受領は明確に客観的で、イエスキリストによって約束され、

信者の信仰に対して存在している。またイエスキリストの体と血が、パンとブドウ酒の中に、又その下に共にあるのでは無く、霊的に存在するのである。信仰者の霊的命の為に必要とするもの全ては、イエスキリストに由来し与えられるのである。それは信仰者の全くの愛と信仰によって受け取れるのである。

 

 8節  相応しい陪餐者

現代の教会でも、陪餐に相応しい者は誰なのかとする論議がある。中には、

信仰告白をしていない者に陪席させてしまう教会が出てきた。また信仰告白をしても、公然たる罪の中にある者は主の食卓から排除されるべきとの判断をしている教会もある。この為に或る改革・長老教会では、聖餐式の前に神と隣人との関係を正し、祈りながら聖餐式に備えるように勧告を出している。また牧師や長老が、家庭を訪問し陪席の諾否を判断していた。しかし、この慣行は時には、信者に深い悩みを与える事になってしまった。それは罪を過剰に意識する者が、己を相応しくない者として考え、聖餐に預からない様になってしまった事である。本来聖餐式は、罪ある者こそが受けなければならないのであり、

己自身を見つめ内省しながらイエスキリストを見上げる事であるので、罪ある者が積極的に受領せねばならないのである。罪の判断をイエスキリストにお任せせずに、自分で判断する事は高慢以外の何ものでもない。また信仰告白をしていない者や、無知で邪悪な者が仮に聖餐に預かったと言え、何等聖なる奥義に触れる事はなく、ただ神からの怒りと裁きを招くことになる。

 

 

       第三十章  教会の譴責について

 

 序.

神は人間社会の唯一の統治者であり、イエスキリストは王職、預言者職、祭司職を果たされている。この社会は大きく二つの領域に分かれており、その統治の性質は異なっている。それが教会と国家である。中世は教会と国家が統一的に平行したが、近世になって民族的国家が成立するようになり、この二つの領域の区別が明確になっていった。この告白が作成された当時は、教会権能と国家権能が相互独立すべきとの認識が深まり、政教分離がなされて行ったのである。そして教会でもイエスキリストが真の統治者であるが、統治権を委ねられたのは人間であり、教会役員がこれにあたる。これを明確にしたのが改革・長老教会であった。 教会政治に対しては、現在三つの解釈がある。

 一人の監督が統治する。(監督制) ローマカトリック、聖公会

 直接民主制の採用。 (会衆制) 組合教会、独立教会

 間接民主制の採用。 (長老制) 改革・長老教会

この他に、日本では無教会主義や個人的信仰を告白する者達の小グループ集会等がある。彼等は、教会の統治そのものを否定し、地上の権威の入る余地を与えていない。しかし、聖書では長老制が既に存在していた事を証言しているし、

長老制による統治が、最もその決議においても偏る事の無い中庸であることは衆知の事実である。そして、教会生活の中で一致と純潔を守る上では、訓練・戒規は絶対に必要である。これは、教会の頭なるイエスキリスト権威において導かれた会議による決定のみがその正当性を持つのである。

 

1節   国家から分離した教会政治

ウェストミンスター信仰告白が採用される以前まで、長きに渡って教会と国

家どちらかがその支配権をとるまでは、対立が続くという構図があったが、「主イエスが、教会に国家的為政者とは別個の教会役員の手にある政治を定められた」と告白する事で、その対立に終止符を打ったのである。この決定の陰には、この会議に集った多くのイングランドの神学者は国教会の職制にあった人達であり、必ずしも政教分離に賛成であったわけではなかったが、長老政治に切り替える様にとのスコットランド教会からの要請に答えたのである。この事で、国会で召集されウェストミンスターで会議が行われたにも拘らず、イングランド教会で多く採用されない原因ともなった。もっぱらスコットランド教会、アイルランド教会、オランダ改革派教会で採用されたのである。

 

2節   鍵の権能

ここはマタイ16:19での「天の国の鍵」について告白されている。この

鍵を委託されているのは、教会役員であり、教会での入会・除籍の権能をさす。

この中には、戒規・訓練も含まれている。「閉ざす、開く」権能とは、悔い改めの無き者への譴責であり、悔い改めに至った時には譴責の解除と再入会の許可を指す。鍵の権能は、二つの手段によって正しく用いられる。

 福音の説教で悔い改めた者に天国を開き、悔い改めない者に天国を閉める。

 譴責の解除で悔い改めた者は、再入会が許される。

 

3節   教会の譴責

譴責は最も軽い処分であり、職務上の義務違反に対してなされ、将来是正さ

れる事を期待して行う処分である。本来の教会における処分は、懲罰でなく将来の悔い改めを願ってなすものであるので、概して教育的・慈悲的である。

この告白では、四つの譴責に至る理由を述べている。

 罪を犯した兄弟を矯正し、獲得する

 同様な罪を犯す事を、他の者にも思い止まらせる

 イエスキリストの名誉と福音の聖なる告白を擁護する

 神の契約とその印証を汚されるままにしない為、放置する事で教会に下る神の御怒りを防ぐ

教会の譴責は、これ等の為に必要なのである。

これ以外に、注意しなければならないのは神に対してのみ告白される私的な罪以外に、教会の兄弟姉妹に対して個人的に告白される罪がある。それによって、

かえって緊密な人間関係が破壊されてしまい、妬み、中傷、敵意、背信が表面に現れ、牧師の牧会的配慮が間に合わない事態が生じる。これに対しては、長老や執事は愛の配慮を常に払っていなければならない。

 

4節   戒規の手続き

戒規の実行の為に、三つの手続きがある。

① 訓戒  :2テサロニケ3:15「兄弟として警告する」

      1テサロニケ5:12「主に結ばれた者として導き戒める」

  陪餐の一時停止:これは小会において、何度も祈り、和解をはかり、悔い

          改めを求め、決して性急に決定してはならない。

③ 除名  :これは最も厳しいもので、教会からの交わりから外される事で

       あり、見えざる教会からも除名されるので、永遠の救いは残さ

       れていない。

戒規に付される事を好しとする者は、すでに悔い改めを拒否しているので教会への忠誠や、神に対する信仰、教会規律への従順を失っている。今日の教会は、時にはこの様な者を抱え戒規に付す事をせずに放置している。これは信仰告白教育が疎かになっており、訓練と教育をせずに、教会を人間的集まりと取り違えている人達をそのまま抱えているからである。また教会会議が形骸化している証拠でもある。教会の譴責が必要でない、真のイエスキリストの体なる教会を、種々の異論を抱えていても、私達は建て上げていかなければならない。

 

     

      第三十一章  地方会議と総会議について

 

 序.

使徒言行録15章では、正に当時の総会議が開催され、教会全体の純潔を守り、分裂させないために召集された。またこのウェストミンスター信仰告白を定めた神学者会議も、正に総会議であった。

 

 1節   地方会議と総会議

これは中会また大会と言われる。Synod  は会議、長老会を意味する語であ

り、Council  は会議、評議、審議を指し、特に宗教会議あるいは地方自治体の会議を意味している。長老教会では、小会(Session),中会(Assembly, Presbytery)、大会(General Assenbly, Synod)あるいは総会と、段階的構成となっている。この様に各個教会で解決できない課題を教会会議で合議して解決するのが改革・長老教会の教会政治である。これは全く聖書的で、この形態は過去数百年に渡って試され、教会全体のまとまりには最適な制度であった。

日本キリスト改革派教会では、小会では各個教会に関わる事項について法治権を有し、中会では一定地域内の教師・小会・および各個教会の共通事項に法治権を有し、大会は全教会の中会・教師・小会・各個教会共通の事項に法治権を有している。そして、各教会会議は分離独立して決議を行うのではなく、相互関係を有し、各教会会議の決議は全教会の決議とみなされる。そして下位の会議が誤りを犯した時には、上位の会議がこれを是正する。そして教理及び秩序に関して論争が起きた時には、上位の会議の決定に委ね全教会の純潔と一致を守るように定められている。

 

 2節   教会会議の権利

これは、国家の権威からの教会の独立を主張したものであり、今日の様に多

くの国では政教分離がなされているので、この告白が定められた時代を背景にしていたと理解すればよい。要するに為政者が反教会的であれば、教会会議を招集する権利は教会が持つ事を宣言したのである。

 

 3節   教会会議の権能

 信仰についての論争と良心の問題を決定する

 教会の正しい秩序・政治・礼拝をなす為に、憲法・規則・指針を定める

 告訴の受理

 教会裁判を行い審決を下す

そして、その決定は神の御言葉に一致している限り、教会員は尊敬と従順を

持って受け入れねばならない。何故なら、御言葉に合致する限りにおいては、神の御意志であるからである。

 

 4節   教会会議といえど無謬ではない

ローマカトリックは多くの公会議の決定を無謬としてきたが、AD1870

年の第一回バチカン公会議では教皇の絶対無謬性を決定し、誤謬の頂点に達した。このように神の御言葉に適わない決定を教会会議は行ってきた。それで、教会会議の決定は信仰と生活の規準とされてはならないが、双方の助けとしては用いられても良い。その場合、あくまでも聖書の御言葉に合致していなければならない。

 

 5節   教会会議は国家に関わる問題に干渉してはならない

二つの領域には当然重なり合う部分があるが、教会会議は教会的な事柄につ

いて限定をし、この世の問題に干渉してはならないと告白している。

 非常な場合における謙虚な請願

 為政者から求められて良心による助言をする

この二つについては例外としている。しかし、教会は常に国家社会に対して、“見張り”の役割をしなければならない。歴史の上では、独裁政治、全体主義政治の中で、基本的人権、宗教の自由が迫害され、そして多くの犠牲を教会は払って来た。これに対して教会は、聖書に基づき批判や叱責をなさねばならない。

しかし、現実には政治の世界にキリスト教信仰を公にする政治家は少なく、政策に変更を与える力はない。そして国家の道徳的水準は低下の一途を辿るのみである。

 

 

    第三十二章  人間の死後の状態について、また死人の復活について

 

 序.

死とは人間にとって永遠のテーマである。どのような未開の民族でも必ず

死生観を保持している。それは神秘であり、恐怖であり、また希望でもある。然しながら、どのような被造物も「死ぬ為に生まれてくる」のであり、不可避的である。だからと言って、一部の実存主義者達が言う様に「死は不合理であり、生は無意味」であろうか。この事は哲学者達の思弁に任せておけば良い事であり、信仰者は聖書では生と死を切り離して見ていない事を知らねばならない。そして、ヘブライ9:27では「人間にはただ一度死ぬ事、その後に裁きを受ける事が定まっている」と明確に述べている。

 

1節   霊魂の不滅

不信仰者でも死んだ後には、ある種の天国があると考えており、仏教でも死

んだ後には仏になれると考えていた。キリスト教では、ここで告白されているように、信仰者の肉体は死後チリに帰り、霊魂は直ちに不死の本質を与えられ、神の元に帰り、そして、体の全きの贖いを待ちながら、栄光の内に神の御顔を見る。しかし、悪人の霊魂は地獄に投げ込まれ、最後の審判の日までそこに閉じ込められ、暗黒の中にあり続けるのである。また聖書では天国と地獄についてしか言っておらず、煉獄なるものは存在しない。ローマカトリックでは、煉獄を清めの場所とし、聖人はすぐに天国へ行くが、普通の信者はここでしばらく滞在するとしている。その期間は、地上における善行や、死んだ者に対する祈りや、特別になされるミサによってその期間が短縮されると言う。その他にも、族長領域、幼児領域、等のリンボ界があるとし、また霊魂が睡眠している領域もあるとしていた。これらは全く聖書に基づかない空想の産物であり、人間の思念が作り出した最悪のものである。ここからは、個人の終末の彼方にある、喜びと慰めと希望の世界は知る由もない。

 

2節   最後の裁きの日

2テサロニケ4:15~18では終わりの日における信仰者の状態について

かかれている。その日に生きている者は死なずに栄光ある体に変えられ、それまでに死んだ者は生前と同じ体(性質は聖くされている)をもって復活し、彼等の霊魂と再び永久的に結合されるのである。この終わりの日に関しては、前千年王国説、後千年王国説、無千年王国説、契約期分割説等があり、教会では長きに渡って論争の種であった。しかし、これはあまりにも抽象的・象徴的思弁であり、黙示録以外にはその典拠となる記述はない。黙示20:1~10

1コリント15:42~58では、パウロは死の時の体と、復活時の体の違いについて明確にしています。「ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、私達は変えられます。この朽ちるべきものが、朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着る事になります」こうして信仰者は、今とは異なる状態に変えられるのであります。

 

3節   正しい者と正しく無い者との違い

正しい信仰者は、終わりに日に「キリストは、万物を支配下に置く事さえ出

来る力によって、私達の卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ姿に変えて下さるのです」事を心から喜び、この地上の生活の中で絶えず祈りながら、聖霊よる聖化を待ち望んでいるのであります。「この書物の預言の言葉を秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れたままにしておけ。正しい者には、なお正しい事を行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ」 正しくなく不正を行う者は、当然恥辱と刑罰の中に黄泉帰えらせられる。この事さえ把握しておけば、悪人にたいしてこれ以上の詮索は無用である。

 

 

      第三十三章  最後の審判について

 

 序.

キリスト教は自然界を輪廻転生でみたり、終末を終わりなき循環論で考えたりしない。歴史は、終わりの日に於けるイエスキリストの再来と、全人類に対する最終審決においてその役割は終わるのである。ヨハネ3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る為である」と証言されていますが、イエスキリストは裁きが目的で最初は来られたのではなく、救いの為であった。しかし、二度目の来臨は、「父は、誰をも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」と神から権威を与えられ、裁かれるのである。

 

 1節   裁きの日

「先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです」使徒17:31 神は、イエスキリストによりその日を定められた。そして裁かれるのは人間だけでなく、背教した天使も含まれる。この時にイエスキリストは、思いと行いと言葉によって犯した罪も、善であれ悪であれ体をもってなした罪ばかりでなく内面の罪をも裁かれる。その裁きは、地上に生きた全ての人に当てはまる。ローマ8:34「だれが私達を罪に定める事が出来ましょう」で言われている様に、信仰者はイエスキリストの贖罪と執り成しを通して無罪とされていますが、最後の審判では信仰者でも、その思いと言葉と行いに応じての判決が、イエスキリストの法廷で下されるのであります。

 

 2節   裁きの目的

 選びの民を永遠に救う事においてご自分の憐れみの栄光を現すため

 邪悪で不従順な失格者の裁きにおいてご自分の義の栄光を現すため

この世の現実を見ていると、悪と不正が増々はびこりこのままでは悪の世界に成ってしまうかと思えるのであるが、神は時が至れば必ず悪を裁き、罪を拭い去って下さる事を約束しておられます。選びの民を永遠の救いへと、滅びの民を永遠の遺棄へと導かれるのである。マタイ25:46「この者どもは永遠の罰を受け、正しい人達は永遠の命に預かるのである」と述べられています。

人生の意味をこの地上だけと捉え、自己満足の人生を送り、欲望を追求している人々に、その幻想から目覚める様に教会は伝道を進めて行かねばならない。

そして最後に来るべき終末にこそ真の救いの完成があり、満ち足りた喜びと慰めを受ける事を知らしめねばならない。

 

 3節   裁きの日は知らされていない

イエスキリストは、全ての人を救う為に地上に来られ、彼等に罪を思い止ま

らせ、敬虔な者には慰めを与える様に、裁きの日がある事を確信させようとされ、裁きの確かさを教えられた。しかし、神はその時は隠されたのである。

マルコ13:32「その日、その時はだれも知らない。天使達も子も知らない。

父だけがご存知である。気をつけて目を覚ましていなさい」と言われたのである。この時に備えて、神から与えられた掟と戒めを守り、清い生活をする様に諭されているのであります。教会で、神の愛が一面的に強調されこの裁きの事が教えられていないと、何もかもが許容されているとして、緩やかな信仰の温床となってしまう。「忠実な良い僕だ。良くやった。一緒に喜んでくれ」と、

イエスキリストから言われる日を、心から待ち望みたいものである。マラナタ

 

 

 これで、W-告白の解説を終わりますが、キリスト教史の中で信条の作成は6世紀以降千年間行われませんでした。ところが、16世紀の半ばに宗教改革によって信条作成が復活したのであります。このことは、聖書解釈の正常化、聖書と国家の関係を正常化に導き、「信仰のみ」「聖書のみ」を掲げる教会は必然的に信仰告白を生産するようになり、正しい聖書解釈をなすようになったのであります。特に、改革派は時代に合わせ、

「聖書によって規範される信仰告白」を、世に問うてまいりました。このキリスト教信仰を体系的に表現したW-告白は最も完備した信条となっています。 このことについて、詳しくお知りになりたい方は、新教出版社刊「ウェストミンスター信仰基準」

の「あとがき」と「日本キリスト教会信仰規準の前文」をご参照ください。

 

 

 

 

 

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2024年3月24日(日) 礼拝 

メッセ-ジ

「 死による勝利 」

    岡本 惠代理牧師  

聖書:イザヤ53:11~12 

讃美歌:545番,9番(1,3),258番(1,2),540番

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