問107
問  主の祈りの結びは、私達に何を教えていますか。
答  (国と力と栄とは、限りなく、汝のものなればなり、アーメン )と言う主の祈りの結びが私達に教えている事は、私達が祈祷における励ましを神だけから受けていると言う事、また祈祷において、神に国と力と栄光とを帰して、神を讃美する事です。また、自分の願いと聞かれる確信とを証言して、私達は「アーメン」と言うのです。

解説
  主の祈りはマタイによる福音書6章9~13節に記されていますが、この結びの言葉はありません。しかし、後の多くの聖書写本に書き加えられております。教会では、この結びの言葉を付け加えて、主の祈りをいのったので、それが習慣となりました。「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」と言う意味は、一つには神の力の豊かさ、強さを受け入れ、祈りが実現するようにと確信を持つ事でした。二つは、人間の力ではなく、神の力に信頼を置き、日々の試練も、悲しみも、誘惑も、憂いも、また喜びもみな神から来る事を覚え、神への信頼を心から告白する為でありました。
  そして、「この祈りは、私の真実な思いからです」との意味で、「アーメン」と、言うのです。

 

   問106  

問  第6の祈願では、私達は何を祈り求めるのですか。
答  (われ等を試みにあわせず、悪より救い出したまえ)と言う、第6の祈願で私達が祈る事は、神が私達の罪を誘惑から守って下さるか、私達が試みられる時に私達を支えて助け出して下さるように、と言うことです。

解説
  第6の祈願は、罪に対しての勝利を求める祈りです。そして、私達が罪と戦う決意を持って祈るのであります。罪の赦しはキリストの一方的恵みにおいて与えられるものであります。そして、この恵みに預かった者は聖霊において、勇気が与えられこの地上のサタンの勢力との戦いに勝利しなければなりません。この勝利は、イエスキリストが再臨されるときに、完全決着がつき、聖霊において完全に聖められ、神の御国へ入ることが許されるのです。
  この祈りでは、二つのことが祈られています。一つは、罪の誘惑から守って下さる様に。二つめは、試みに逢った時には、自己の力を過信するのではなく、謙遜な祈りをすること、そして神の助けを求めるのです。

 

   問105    

問  第五の祈願では、私達は何を祈り求めるのですか。
答  (われ等に罪を犯す者をわれ等がゆるすごとく、われ等の罪をもゆるしたまえ)と言う、第五の祈願で私達が祈る事は、神が、キリストのゆえに、私達のあらゆる罪を一方的にゆるして下さるようにと、言うことです。私達は、神の恵みによって他人を心からゆるせる者とされているので、なおさらこれを求めるように奨励されているのです。

解説
  第五の祈願は、罪のゆるしを求める祈りです。どんなに日々の必要を神が満たして下さろうとも、罪のゆるしの恵みがなければ私達の生活は、悲惨です。罪のゆるしが無い人は、神の裁きの下にあるのです。この罪に対する悔い改がなければ、私達は救われません。これは信仰する人の基本的態度であります。罪のゆるしは、神の一方的なゆるしであり私達がそれに対して、何か代償を払うのではありません。それは既にイエスキリストが支払って下さっているからです。
  神は人間の善行や功績によってゆるして下さったのではありません。全てイエスキリストの十字架上の贖いに於いてです。私達がこの事を知り、信じる時に、他人を裁く思いは消えうせて行くのであります。裁き、そしてゆるしは、唯々神の御手に属する業なのであります。

      問104 

問  第四の祈願では、私達は何を祈り求めるのですか。

答 (われ等の日用の糧を今日も与えたまえ)と言う、第四の祈願で私達が祈る事は、
   神の一方的な賜物の内から、私達がこの世の良き物の正当な分を受け、それに
   よって神の祝福を楽しむ事が出来るように、という事です。

 

解説
  この第四の祈願からは、私達の必要を中心とした祈りです。日用の糧とは、単に
  日ごとの食物と言う事だけでなく、毎日の衣食住に関わり私達の生命を支えて下
  さるもの全てを祈り求めます。また、精神的な喜びや楽しみをも祈り求めていま

  す。もっと細かく表現しますと、食物、衣食住、趣味、知識の取得、結婚、出産、

  家庭の平和等々であります。そして私達は、必要以上を求めるのではなく、正当な

  分を求め、また隣人の幸せをも神が満たして下さるように祈らねばなりません。

  その為にも、不正を願ったり、行ったりする事の無い様に、何時も神の祝福を求

  め、神が与えてくださるものに満足を覚えなければなりません。

 

   問103

問  第三の祈願では、私達は何を祈り求めるのですか。
答  (御心の天になるごとく、地にも成させ給え)と言う、第三の祈願で私達が祈る

   事は、神が恵みによって私達にも、天における御使い達の様に、万事につけて神

   のご意思を知り・従い・服する事が出来る力と意思とを、授けて下さる様に、

   と言う事です。


解説
  「神の御心」とは、神が」創造主として全てを統べ治めておられるので、天地万物

  は神の御心
  のままに運ばれて居られるのです。また神は人をご自身の似姿に造られました。

  それで、人は本来善き者であったのです。人は神を愛し、人を愛する事が本来出来

  る者でありましたが、原罪故にそれが出来なくなってしまいました。しかし、イエ

  ス様の十字架上の贖いにおいて、救われる事を良しとしてくださいました。しか

  し、イエス様の救いを受け入れない者は、滅びに至らせるのも神の御心でありま

  す。それで、神を信じる者はこの地上が、神の喜ばしいご意思の中に、善き事が

  実現するように、お祈りをするのであります。そして、イエス様と神の救いを受け

  入れる為にも、私達は何時も聖霊に導かれて主の御心を知り、そのご意思に従って

  生きて行く事の出来る力と、強き意思を与えて下さる様に祈らなければなりませ

  ん。

 

   問102

問  第二の祈願では、私達は何を祈り求めるのですか。
答  (
御国をきたらせたまえ)という第二の祈願で私達が祈る事は、サタンの王国を

   滅ぼして下さる様に、恵みの王国を進展させ、私達自身と他の人々をそこに入

   れ、その中に守って下さる様に、また栄光の王国を早く来たらせて下さる様に、

   という事です。

解説
  「御国」「神の国」とは、神のご支配が行き渡るところという意味です。神は世界

  の支配者ですが、世界には、神の御支配が隠されている面があります。それは、悪

  の横行、罪と悲惨、信じる者の聖化の未完成などです。「御国が来る」とは、神の

  支配が現されて、これらの隠れている面が完全に克服される事を言います。そして

  この「神の国」は、イエスキリストがこの世に来られて、罪びとを救われる為に、

  その伝道の業を始められた時から、開始されました。そして、イエスキリストは、

  彼を信じる人々を罪とその結果である死から解放され、その支配下に今教会を通
  して、置いて下さっています。そして、この神の国は、主イエスキリストが再びこ

  の世に来られる時に完成し、神の恵みと慈しみがあまねく広がり、全ての信者が

  永遠の命を得る事となります。

 

 

   問101

問  第一の祈願では、私達は何を祈り求めるのですか。
答  「願わくは、み名をあがめさせたまえ」という、第一の祈願で私達が祈る事は、

   神がご自分を知らせるのに用いられる全ての事に於いて、神が私達と他の人々に

   神の栄光をあらわす力を授けて下さるように、また、神が万事をご自身の栄光の

   為に配剤して下さる様にと言う事です。

 

解説
  名はその人の人格を表すものですから、神様ご自身を表す言葉であります。そし

  て、神様が崇められます様にと言う意味であります。そして、この世全てに神様の

  ご栄光が光輝く様にとお祈りするのです。私達は神様の栄光を口だけでは無く、

  教会や家庭で礼拝する、伝道や奉仕をする事で具体的に神様を崇めております。

  そして、多くの方が神様を信じる事の出来るようにと祈らなければなりません。

  また、神様の栄光が輝く時とは、この地上にあってはあらゆる、苦難や困難が克服

  され、人々全てが神様のみ名を讃える事の出来るその時であります。その様な時

 が、来るようにと、私達は祈るのであります。

 

 

  問100

問  主の祈りの序言は、私達に何を教えていますか。
答  「天にまします我らの父よ」という、主の祈りの序言が私達に教えている事は、

   私達を助ける力と志を持って居られる神に、全くきよい崇敬と確信を持って、

   父に対する子の様に近づく事、また、私達が他の人々と共に、他の人々のために

   祈らなければならないと言う事です。

 

解説
  神様は完全であり、無限であり、永遠であり、変わらざるお方で天地万物をお造り

  になり、これらを守り、治めて居られる方です。そして、イエスキリストの十字架

  上の贖いに於いて私達を罪から救われ、愛して下さり、子として下さっています。

  それ故、私達は自己中心の思いを捨てて、父としての神様に信頼し、その慈しみと

  愛の御手の中で育まれていけばよいのであります。全くの崇敬・尊敬の念を持っ

  て、全くの信頼をもって、信仰を同じうする人々と共に、「アッバ・・父よ」と

  祈れば良いのであります。

 

 

     問99

問  神は、私達に祈祷を教えるため、どんな基準を授けていて下さいますか。

答  神のみ言葉全体が、私達に祈祷を教えるのに役立ちます。しかし、その特別な

   指導基準はキリストが弟子達に教えられた祈祷文、いわゆる「主の祈り」です。

 

解説

  

  私達が神様のご意志に適う祈りをするためには、それをどのようにして知る事がで

 きるでしょうか。それは聖書を通して知る事が出来ます。マタイによる福音書6章:

 9節~14節に記されている、「主の祈り」から知る事ができます。イエスキリスト

 は、私達に祈りの要点を示されています。

 ① み名を呼ぶ。  み国の到来を求める。  み心の成就を求める。 この三

   つは、神様   のご栄光を表す祈りです。そして、  日毎の文化的・肉体

   的・社会的に必要なものを求める。    罪の赦しを求める。
  誘惑や試練を克服する事の出来る勇気と力を求める。 この三つは、私達自身の必要を
願い求める祈りです。結びは、「国と力と栄とは限りなく汝のものなり。アーメン」 と祈るのであります。この祈りは、独りよがりの祈りにならないように、私達の思いと心を整えて下さるものであります。

 

 

問98

問  祈祷とは、なんですか。
答  祈祷とは、神のご意志に一致する事のために、キリストのみ名によって、私達の罪の
   告白と神の憐みへの感謝に満ちたお礼をそえて、神に私達の願いをささげる事です。

 

解説
  

   私達の信仰と悔い改めを行うために、神様が定めてくださった外的な手段の一つに祈りが

  あります。そして祈りの中心は、讃美、悔い改め、罪の告白、感謝、願いです。私達は
  祈りによって聖い神様の前に出るのですから、そのみ名を崇め、罪を告白し、神の赦し
  を願うものでなければなりません。そして、己の高慢を捨てて神の前でへりくだるのです。
  私達は、この世で生きて行く上で、衣食住において多くの恵みを与えられている事を知り、
  感謝し、神様の慈しみと憐みを覚えなければなりません。そして、いつも神様のご意志に
  合わせて生活しなければなりません。また、祈りは必ず救い主イエスキリストのお名前に
  よって祈るのであります。

 

 

 問97

問  主の晩餐をふさわしく受けるには、何が求められますか。
答  主の晩餐にふさわしく参加したい人には、次の事が求められています。即ち、主の御体を
    わきまえる自分の知識・キリストを糧とする自分の信仰、悔い改めと愛と新しい服従について
    自己吟味する事です。それは、ふさわしくないままで来て、その飲み食いによって、自分に
    裁きを招くといけないからです。

解説
  聖餐を受ける者のふさわしい態度とは、それは「自己吟味」であります。それは、毎月繰り返される聖餐式が決

  してマンネリとならず、何時も緊張し、心身ともに健全な状態で受けるために、自分の内面外面をよく観察し、

  自己吟味をしなくてはなりません。そして、自己吟味の結果、罪の赦しを真剣に求め、新たに生まれ変わる事を

  誓わねばなりません。そのためにも、配餐されたパンやブドウ酒を漫然と受け取ったり、祈りなしに頂いてはな

  りません。また、キリストの御言葉を己の霊的食物として受け取る事でもあり、聖餐式は正に見る事の出来る説

  教でもあります。そして、神を愛し、隣人を愛し、神に従って生きていく事を約束するのであります。

 

 

 問96

問  主の晩餐とは、何ですか。
答  主の晩餐も一つの礼典です。その時、キリストの指定に従って、パンとブドウ酒を与え、
    また受ける事によって、キリストの死が示されます。また、ふさわしい陪餐者が、身体的、
    肉的な仕方でなく信仰によって、キリストの体と血を、キリストのあらゆる祝福もろとも
    分け与えられて、霊的に養われ恵みの内に成長するのです。

解説
  私達がイエスキリストを信じ、永遠の命に至る悔い改めをなす為に、イエスキリストが定めて
  下さった手段は洗礼と聖餐であります。聖餐は信仰告白をした時の主の恵み(契約の恵み)
  を更新し、終わりの時まで受け続ける事のできるものであります。 その目的は次に三つです。
   キリストの死が示される事: パンは十字架に架かられたキリストの体を象徴し、ブドウ酒
     は、私達の罪に赦しのために流されたキリストの血によってたてられた新しい契約を意味
     します。ですから、それを頂くときに信仰の目を持って、イエスキリストを見上げ、永遠

     の命を保証して下さった事を思い起こし感謝するのです。
   キリストとその祝福を頂く事: 信仰をもってパンとブドウ酒を頂く事でキリストの祝福を

    自分のものとできるのであります。
   霊的に養われ、救いの恵みに内に成長する事: 洗礼は一回限りですが、聖餐の恵みは
    終りの時まで継続されて行きます。そして、十字架の恵みが益々増し加わるのです。

 

 

  問95

問  洗礼は誰に執行されるのですか。
答  洗礼は、可見的教会の外にいる人には、キリストへの信仰と服従とを告白するまでは、
   誰にも執行してはなりません。しかし、可見的教会の会員の幼児は、洗礼を受けなければ
   なりません。

解説
  可見的教会とは、見える教会と言う意味であり、この地上において洗礼を受け主イエスキリスト
  を受け入れた全ての人々が集まるところであります。不可見教会とは、過去・現在・未来の
  イエスキリストを受け入れて居る人々が集う天上の教会であります。通常、洗礼を受けた人は
  信仰をもって教会生活を送っていますから、不可見教会・可見教会の双方の会員であります。
  本来洗礼そのものが人を救うのではなく、洗礼によって神との契約関係に入り、信仰と服従を
  もって教会の一員となり救われるのです。そして、その教会員の子供は親の信仰によって、
  契約の中に入れられ、救いの恵みに預かる事が出来るのであります。ですから、信仰を口で
  告白できない幼児でも救いに入れられるのであります。これを幼児洗礼と申します。

 

 

  問94

問  洗礼とは何ですか。
答  洗礼とは、一つの礼典です。その時、父と子と聖霊の御名によって水で洗うことが、
   私達がキリストに接ぎ木され、恵の契約の祝福を分け与えられ、主のものになると
   約束する事を、表わし証印するのです。

解説
  洗礼は契約の儀式です。キリストに結びあわされ、神の民の一員となる契約です。
  この契約は、イエスキリストを仲介として神と結ぶ契約であり、イエスキリストの体なる
  教会の枝に繋がる事を誓約するものであります。そして、父と子と聖霊の御名によって、
  滴礼(水を頭にたらす)、灌礼(水を頭に注ぐ)、浸礼(全身を水に浸す)、何れかの方法に
  よって行います。この水の洗いきよめは、古き体が死に新しき体をもって主イエスキリスト
  を受け入れて、教会生活を送って行くという意志の表明でもあります。同時に、聖霊の導き
  によって、主イエスが再びこの地上に来られる時まで、喜びと感謝と祈りと、愛の一致、
  霊の一致を持って兄弟を愛し、神を愛し、この地上での生活を送る第一歩となるものであ
  ります。

 

 

  問93

問  新約の礼典は、どれですか。
答  新約の礼典は、洗礼と主の晩餐です。

解説
  礼典は神の制定によって、感覚的なしるしにより救いの恵みを示し、証印し、適用する
  式典であります。旧約の時代には、割礼や過越祭等の式典、犠牲の奉献が救いの恵み
  を示すものでありました。新約の時代には、これが二つの礼典として、イエスキリストに
  よって命じられました。 これが洗礼式と聖餐式であります。

 

 

  問92

問  新約の礼典は、どれですか。
答  新約の礼典は、洗礼と主の晩餐です。

解説
  礼典は神の制定によって、感覚的なしるしにより救いの恵みを示し、証印し、適用する
  式典であります。旧約の時代には、割礼や過越祭等の式典、犠牲の奉献が救いの恵み
  を示すものでありました。新約の時代には、これが二つの礼典として、イエスキリストに
  よって命じられました。 これが洗礼式と聖餐式であります。

 

  問91

問  礼典は、どのようにして救いの有効な手段となるのですか。
答  礼典が救いの有効な手段となるのは、礼典そのものや礼典執行者の中にあるどの様な
   力によるのでもありません。ただ、キリストが祝福して下さることと、信仰によって礼典を
   受ける人々にキリストの御霊が働いて下さることとによるのです。

解説
  罪のための神からの罰を免れるために、私達のなすべきことは、 イエスキリストを信じる事
   命にいたる悔い改めをする事です。そしてこれを行うために神が定めて下さった外的な手段
  が、御言葉・礼典・祈祷です。そして、ここでは礼典の効力について教えています。
  教会で行われる礼典、つまり洗礼式と聖餐式ですが、これについて間違った考え方がありますのでそれを指摘し

  ています。真の礼典の効力は別な所にあります。
   キリストの祝福: キリストは礼典を通して天から聖霊によって、私達を祝福してくれます。
   信仰によって: 信仰によってキリストと結ばれ、礼典の恵みをしっかりと受け止めます。
   御霊の働き: 聖霊は、水・パン・ブドウ酒などの感覚的なしるしを通して、十字架の恵みを私達に示して

  下さいます。キリストは、このように目に見えるしるしを通して私達と人格的なつながりを強め、十字架と復活

  の恵みを一層豊かにして、私達にお与えになるのです。

 

 

   問90
  問  御言葉が救いに有効となるには、御言葉をどのように読み、また聞かねばなりませんか。
  答  御言葉が救いに有効となるには、私達は、勤勉、準備、祈祷をもってこれに傾聴し、信仰と愛を持って受

     け入れ、私達の心のうちに蓄え、私達の生活の中で実践しなければなりません。

解説
  問90では御言葉を読み、聞く態度について述べています。聖書を読む事は、とても大事ですが、
  救いの恵みを頂くためには神様が聖書を通して働かれる道筋は、牧師が語る説教です。
  そして、その説教を聞く際に、聴く側の受け入れる態度について教えています。
  第一に、説教を聞く備えとして三つの事を示しています。
   勤勉に聞く: 礼拝を継続して守り、持続的に説教を聞くこと。
   準備する : 御言葉を聞くに相応しい心の備えをなすこと。
    あらゆる悪意、偽り、偽善、そねみ、悪口等の一切の思いを捨てて、悔い改めて説教を聞く。
   お祈りをする: 聖霊を通して、自分の心が明るく照らされ、頑なな心が開かれるよう祈る。
  
  第二に、御言葉を受け入れる態度について教えてくれています。
   信仰をもって: 語られる神様の真実と、イエスキリストの福音を素直に受け入れること。
   愛をもって : 神様を愛し、人を愛する心に切り替え、神様の戒めと掟を受け入れること。

  第三に、御言葉を聞いた後の在り方について、教えてくれています。
   心に蓄える: 頭に記憶するだけでなく、心にも刻み込むこと、特に説教は自分に語られて
    いると受け取り、謙虚に聴き従うこと。
   生活の上で実践する: 私達の罪を赦して下さったイエスキリストに倣って、人々を愛する
    こと。そして、聖霊がいつも己の魂を聖めて下さっていることを感謝する。

 

   

    問89

問  御言葉は、どのようにして救いに有効とされますか。
答  神の御言葉は、御言葉を読むこと、特に説教を、罪人に罪を自覚させて回心させるため、
   また信仰によってきよめと慰めのうちに救いに至るまで建て上げるために、有効な手段と
   されます。

解説
  信仰と悔い改めを行うために神様が定めて下さった手段とは、御言葉と礼典と祈りであり
  ました。御言葉を通して、働かれるのは聖霊なる神様です。信仰と悔い改めは、自力で
  できるものではなく、聖霊が心を開いて下さり、心を照らして下さる事によって、初めて
  できるものであります。聖霊なる神様は、御言葉を通して心に語りかけて下さるのです。
  そして、牧師の口を通して説教で、直接私達に語りかけて下さるのです。ですから、主の
  日の礼拝において、説教を聞く事は神様の語りかけを聞く事となるのであります。
  ですから、敬虔と熱心をもって説教に聴き従う事を求められるのであります。
  特に、説教を通して罪の自覚に至り、悔い改めの心をもって、イエスキリストが真の救い主
  であると、告白する事ができます。また、イエスキリストのご性質、似姿を通して私達が、
  この世できよく正しい生活ができるように、いざなって下さいます。そして、悲しみにある時に

も、苦しみにある時にも、悩みの中にある時にも、神様は御言葉を通して、愛し、励まし、慰め、
  導いて下さっております。そして、イエスキリストが再臨される時に、私達を神の子として下さ

るのです。

 

 

 問88

問  キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるのに用いられる外的な手段とは、何ですか。
  答  キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるのに用いられる外的な手段とは、キリストの
   規定、特に御言葉、礼典、祈祷です。この全てが、選民にとって救いの為に有効です。

解説
  問85で学びましたように、私達が成すべきことの中心は、 イエスキリストを信じる事
   永遠の命に至る悔い改めをする事です。そして、その信仰と悔い改めを行うために
  神様が定めて下さった外的な手段は御言葉の説教、聖礼典、祈祷であります。
  この三つを、「キリストの規定」としています。これは信徒が、従わねばならない規定です。
  キリストが用いられる内的な手段とは、聖霊のお働きで人の心を新しく生まれ変わらせる事です。
  そして、この働きがなければ私達は、信仰に至らず、悔い改めも起きません。それで、この
  キリストの規定を忠実に守る事において、私達は己の信仰を生き生きとしたものになし、
  神と人への愛に生きる事が出来るようになるのであります。私達は、この世での生活を送るに
  当たり、試練や、苦難や、かなしい事に遭遇致しますが、その時々において、心を休め、
  忍耐をもってそれらをやりすごす事が出来ますのは、まさにこの「キリストの規定」を、守れば
  こそであります。御言葉と礼典と祈りこそが神様が私達に与えられた恵みの手段であったのです。

 

 

 問87

問  命に至る悔い改めとは、何ですか。
 
答  命に至る悔い改めも、救いの恵みです。それによって罪人は、自分の罪を本当に自覚し、
   キリストにある神の憐れみを理解して自分の罪を嘆き憎みつつ、罪から神へと立ち帰り、
   新しい服従をはっきりと目差し努力するようになるのです。

解説
   命に至る悔い改めは救いの恵みです。悔い改める心も神様が私達に与えて下さるもので、
   私達の自分の力で成し遂げられるものではありません。私達は、神様が与えて下さった
   恵の手段(御言葉の説教、聖礼典、祈り)を用いて、神様が悔い改めの心を起して下さる
   時を待ち望むべきであります。 全ての事は、最も相応しい時が用意されているのであります。
   悔い改めには、二段階があります。
    自分の罪を嘆き、憎む事。
    神様に従う決心を固める事。
   悔い改めとは、「向きを変える」という意味がありますが、同時に罪とは「神様をはずす」とい

 う意味がありますので、「神様の方に向きを変える」と言う事が、その真意であります。
   そして、罪を自覚しその罪によって生じるあらゆる現行罪(盗み、むさぼり、憎しみ、殺す、

 侮蔑、淫乱、嘘をつく等々)から離れ、この地上の歩みを正しく行っていく事を、神様に約束

 し、実行する事が、悔い改めによる正しい行いです。神様は、いつも憐れみと忍耐を持たれ、

 私達罪人が、何時でもその身元に戻って来れるように、待って居られるのであります。私達は

 弱い者であります。洗礼を受けて信仰者になったとは言え、何時も悔い改めの心をもって、

 イエス様に祈らねばなりません。そうする事で、聖霊なる神様が聖化の業を継続し続けて下さ

 るのです。

 

 

 問86

問  イエスキリストへの信仰とは、なんですか。
  答  イエスキリストへの信仰は、救いの恵みです。それによって私たちは、救いのために、
   福音において提供されているままに、キリストのみを受け入れ、彼にのみ寄り頼むのです。

解説
  罪(神様から離れること)のために神からの罰を免れるために、私達のなすべき事は、次の
  二つです。
   イエスキリストを救い主として信じる事。
   永遠の命に至る悔い改めをする事。(問85)
  この問86は、イエスキリストを信じる事について教えています。
  イエスキリストへの信仰は、救いの恵みを受け入れる事です。つまり、信仰は神様からの
  賜物であり、自分の力によって信じたり、信じなかったりするものではありません。神様から
  よしとされた者に与えられる恵なのであります。それが、イエスキリストです。その方について、
  聖書の中で十分に証言されており、私達はそれを神の言葉として、受け入れ、イエスキリストを、
  信じれば良いのです。そして、教会において、御言葉からイエスキリストの御心を知り、聖礼典

によって信仰を強め、絶えざる祈りを持って、イエススキリストとの交わりを深めれば良いので

す。イエスキリストは、神の一人子でありながら、人間の罪を赦されるために、地上に来られ十

字架に架かられ、死なれ、三日目に復活されて天に昇られ、今日も聖霊を通して、私達を聖め、

赦し続けられております。そして、何時も罪ある私達と、神との間に立って下さり、執り成しを

しておられます。このイエスキリストのみを、信じ、寄り頼む事が、信仰なのです。

 

 

 問85

問  罪のため私たちに当然な神の怒りと呪いとを免れるために、神は、私たちに何を
   求めておられますか。
  答  罪のため私たちに当然な神の怒りと呪いとを免れるために、神が私たちに求めて
   おられる事は、キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるのに用いられる全ての
   外的手段を、忠実に用いて、イエスキリストを信じ、命に至る悔い改めをする事です。

解説
  問85からは、信仰的義務がどのようなものであるかを教えています。問40では、
  人は道徳的に生きる義務を神に対して負っている事を学びました。そして、問41~
  81では、十戒が神と人への愛を持つ事、そして道徳律法を守る事を示しました。
  そして、問83~84では如何なる罪も本来永遠の裁きから免れ得ない事を示されました。
  そこで、この裁きと呪いから免れるための方法をここでは教えてくれています。
  永遠の神の裁きから免れるために、二つの事柄を守る必要があります。
   イエスキリストを救い主として受け入れる事です。
   永遠の命に至るために悔い改めをする事です。

  こうして信仰と悔い改めの人生を歩む為に、神は私たちに救いの「恵みの手段」を、備えて
  下さいました。それは、次の三つです。
   御言葉
   聖礼典
   祈り
  この三つを日々守りながら、信仰生活を整えなければなりません。外形的な形式的な
  礼拝を守ったところで、真の救いはありません。こころから、聖霊なる神に祈り求める
  生活を貫き通しましょう。

 

 

 

 

 問84

問  罪は、みな何に相当しますか。
  答  罪は、みなこの世でも来るべき世でも、神の怒りとのろいに相当します。

解説
  問84では、罪への報いについて教えています。そして、この世でも、あの世でも神の怒りと
  呪いに相当すると教えています。人はこの世で自分のまいたものを刈り取らねばならない
  事があります。それが神様から下る罰であると理解する事ができます。また、この世で罰を
  与えられないとしても、あの世で必ずその報いを受ける羽目になるのであります。神様は
  公平な方です。決して見過ごしたままで放置されることはありません。悔い改め無き者には
  必ず罰が与えられます。私達の犯す日ごとの罪も、その軽重はあるとしても、神にとっては
  怒りと呪いに相当するのであります。イエスキリストは、そのような者の救いの為に来られま
  した。そのイエスキリストを受け入れ信仰生活を送る者には、彼のあがないの中に入れられ、
  永遠の赦しが与えられるのです。

 

 

 問83

問  罪は、みな何に相当しますか。
  答  罪は、みなこの世でも来るべき世でも、神の怒りとのろいに相当します。

解説
  問84では、罪への報いについて教えています。そして、この世でも、あの世でも神の怒りと
  呪いに相当すると教えています。人はこの世で自分のまいたものを刈り取らねばならない
  事があります。それが神様から下る罰であると理解する事ができます。また、この世で罰を
  与えられないとしても、あの世で必ずその報いを受ける羽目になるのであります。神様は
  公平な方です。決して見過ごしたままで放置されることはありません。悔い改め無き者には
  必ず罰が与えられます。私達の犯す日ごとの罪も、その軽重はあるとしても、神にとっては
  怒りと呪いに相当するのであります。イエスキリストは、そのような者の救いの為に来られま
  した。そのイエスキリストを受け入れ信仰生活を送る者には、彼のあがないの中に入れられ、
  永遠の赦しが与えられるのです。

 

 

 問82

問  神の戒めを完全に守れる人が、いますか。
  答  ただの人は、堕落以来、この世では誰も神の戒めを完全には守れず、
     日ごとに思いと言葉と行いにおいて破っています。

解説
  神に対する人の義務の第一は、道徳律法を守る事でした。それは十戒のうちに要約されて
  いました。(問42~81) 問82~84までは道徳的義務とは別の義務、つまり信仰生活の
  必要と重要性について教えています。本来、人は神から与えられた道徳律法を完全に守る
  事が出来ればよいのですが、出来ないので罪の赦しを神から受ける為に、信仰生活を持って
  悔い改めをしなければなりません。信仰をしているといっても、この世の生活の中では、私達は
  思いと、言葉と、行いによって神様の戒めに背いている事がたくさん起こってきます。
  心の中では、いつも隣人に対して羨んだり、軽蔑したり、怒ったり、むさぼりの心を持ったり、
  どうみても隣人を愛しているとは言い難いものであります。また手厳しい、批判や悪口、嘘等
  を言葉に出してしまいます。そして、神を愛し、人を愛する行いから離れていくのであります。
  神は、私達に自分の罪を知り、悔い改め、人生の目的を神の方へ転向するように求めて居られ
  ます。そしてイエスキリストのあがないによって救われた民が、喜んで神の民になれるように
  待って居られるのです。

 

 

 問81~79

問  第十戒は、どれですか。
答  第十戒はこれです。「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、
   しもべ、はしため(召使の女)、牛、ろば、また全て隣人のものをむさぼってはならない。

問  第十戒では、何が求められていますか。
答  第十戒が求めている事は、私達自身の状態に全く満足する事、それも、隣人とその
   すべての所有物とに対して、正しい愛の気持を持って満足する事です。

問  第十戒では、何が禁じられていますか。
答  第十戒が禁じている事は、すべて私達自身の身分に満足せずに隣人の幸せをねたんだり
   恨んだりする事、またすべて隣人の所有するどのようなものにでも法外な意向や愛着を寄せる
   事です。

解説
  第十戒は、むさぼりを禁じています。隣人の持ち物をむさぼる心は、盗み(第八戒)に繋がりま

すし、それが高じれば殺人(第六戒)にも繋がり、また隣人の妻をむさぼる心は第七戒違反にも

なります。特にこの十戒は、心の在り方を問題としており、今までの行動や言葉に現れる違反と

は違った点を指摘しています。そして、こころの奥から清く正しく生きる事を求めているもので

あります。達は、神様から自分に相応しいものを与えられています。それは、神様が大きな愛を

持って与えて下さったものであるのでそれに満足して生活せねばなりません。人と比べて見ても

神様の御心をはかる事は出来ないのです。同時に、イエス様から「己を愛する如く、隣人を愛し

なさい」と、私達は命じられていますから、隣人と共に、悲しい時には悲しみ、うれしい時には

喜ぶ、そのような生活をすべきであります。同時に、私達は自分の生活を良くするために、労働

をこなし、神に感謝して生きていけば、隣人に対するむさぼりの心が起きる事はありません。神

の恵みに感謝し、努力して生きて参りましょう。

 

 

  問78~76

 

問  第九戒は、どれですか。
答  第九戒はこれです。「あなたは隣人について、偽証してはならない」

問  第九戒では、何が求められていますか。
答  第九戒が求めている事は、人と人との間の真実と、また私達自身と隣人の名声とを、
   保ち、高める事、特に証言する時にそうする事です。

問  第九戒では、何が禁じられていますか。
答  第九戒が禁じている事は、何事であれ、真実を損なう事、あるいは私達自身や、隣人の
   名声を傷付ける事です。

解説
  第九戒は、偽りの証言の禁止命令です。当時の裁判では証言が特に重んじられていました。
  従って、偽りの証言は社会の基盤を揺るがす事でありました。そこで、人の真実を守る事、
  人の名声を守る事が、とても大事な事でありました。嘘をつかない事、つまり真実を証言する
  事が、求められたのであります。正しい者は、隣人にとって何が本当であるか、何が間違って
  いるかを正しく証言しなければなりません。そして、人間生活を送る上にとって、真実をねじ曲

げたり、嘘をついたりして生きる事は出来ないのであります。時には、自分を有利に運ぶために
  人を陥れたり、人の名誉や名声を傷付ける事で、生き延びようとする事は誤りです。
  私達は、根拠のない悪口や、噂話を信ずる事無く、真実の目を持って、人を正しく評価するべき
  です。そして、相手の言い分をも素直に受け入れる心が必要です。

 

 

問75~73

 

問  第八戒は、どれですか。
答  第八戒はこれです。「あなたは盗んではならない」

問  第八戒では、何が求められていますか。
答  第八戒が求めている事は、私達自身と他人との富や生活状態を
   正当に確保し、向上させる事です。

問  第八戒では、何が禁じられていますか。
答  第八戒が禁じている事は、何事であれ私達自身または隣人の
   富や生活状態を不当に妨げる事、あるいはその恐れのある事です。

解説
  第八戒は、盗む事を禁じています。これは信仰者の清貧を理想とする生き方を
  勧奨する戒めに見えますが、ここでは富や隣人の生活状態を保護する為の戒め
  と理解されます。富は神から恵みの一環として与えられるものであり、これは喜び
  であります。そして人は神から与えられた賜物を通して、富を得る為に労働をします。
  そして得た富から、神様に応分のお返しをしなければなりません。ところが、人は
  富を得ると、「むさぼり」と「所有欲」によって、その富を用いて世の貧しい人々の為に
  それを還元する事を惜しんでしまい、貪欲の罠に落ち込んでしまうのです。そして、
  貪りの思いから、人のものまで欲するようになってしまいます。そして、真の神に
  仕える事を忘れ、富の神(マモン)に仕える者となってしまいます。
  「あなた方は、神と富とに仕える事はできない」 マタイ6:24 私達は、富至上主義
  から離れて、神の忠実な僕としてこの世の富をしっかりと管理せねばならないのです。

 

 

 問72~70

 

問  第七戒はどれですか。
答  第七戒はこれです。「あなたは姦淫してはならない」

問  第七戒では、何が求められていますか。
答  第七戒が求めていることは、心、会話、振る舞いにおいて、私達自身と
    隣人の貞潔を守ることです。

問  第七戒では、何が禁じられていますか。
答  第七戒が禁じている事は、すべてのみだらな思い、言葉、行動です。

解説
  第七戒は姦淫を禁じています。これは、結婚している者が、別の人と男女の
  交わりをする事です。旧約聖書では、姦淫をなした者は男であれ、女であれ、
  死刑を宣告されました。理由は、結婚とは神が互いの助け手として男と女を
  造られたからです。そして、「二人の者は、一体となるべきである」と、定めら
  れたからです。神はこのように夫婦は深い人格的交わりをなすもの、また
  「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と命令された事を忠実に守らる
  者として期待されて居られました。姦淫は、この創造の秩序を破壊するもの
  であり、神の恵みを拒否するものでもあります。ですから、この地上に於ける
  様々な淫らな行い、誘惑を避けて、思いと、行いと、言葉を慎んで生活をしな
  ければならないのです。

 

 

問69~67

 

問  第6戒は、どれですか。
答  第6戒はこれです。「あなたは殺してはならない」

問  第6戒では、何が求められていますか。
答  第6戒が求めている事は、私達自身の命と他人の命を守るために、
    あらゆる正当な努力をする事です。

問  第6戒では、何が禁じられていますか。
答   第6戒が禁じている事は、私達自身の命を奪う事、あるいは隣人の命を
   不当に奪う事、またその恐れのあるような全ての事です。

解説
  この6戒は殺人禁止の戒めです。これは単に殺人をしないという事だけでなく、
  人の命を守る為の様々な努力をも命じています。 人の命は次の様な時に
  危険にさらされます。
   人の悪意やねたみ、悪口
   病気
   思い煩い、悲しみ、心の病
   飢餓、迫害、戦争、環境の悪化
  そこで、私達の命を守る努力は全ての社会生活の局面で重要となります。
  心の平穏を保つための道徳的努力、社会秩序の維持、医療や福祉政策、
  健康管理、教育等々です。同時に、この戒めは、人間尊重の戒めでもあります。
  創世記9:6「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神に
  かたどって造られたからだ」と、ありますように神の似姿に造られたものを
  毀損する事は出来ないのであります。またコリント信徒の手紙 3:16~17
  「あなた方は、自分が神の神殿であり、神の霊が自分達の内に住んでいる事を、
  知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。
  神の神殿は聖なるものだからです。あなた方はその神殿なのです」
  このように神の神殿たるものを毀損するものには神の裁きが伴うのです。
  ヨハネの手紙 3:15~16「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。全ての人殺しには
  永遠の命がとどまっていません。イエスは、私達の為に命を捨てて下さいました。
  そのことによって私達は愛を知りました」 このように「人を殺す」対極に、愛があるのです。
  この事を知った時に、私達はこの戒めを心から受け入れる事が出来るのであります。 

 

 

問66~63

 

問  第五戒は、どれですか。
答  第五戒はこれです。「あなたの父と母を敬え。これはあなたの神、主が賜る地であなたが長く
   生きるためである」

問  第五戒では何が求められていますか。
答  第五戒が求めている事は、あらゆる人が目上、目下、対等という色々の地位と関係において
   相手の持つ名誉を守り、義務を果たす事です。

問  第五戒では何が禁じられていますか。
答  第五戒が禁じている事は、あらゆる人がその色々の地位と関係において持つ名誉と義務を、
   無視したり、それに反する何かを行う事です。

問  第五戒に加えられている理由は、何ですか。
答  第五戒に加えられている理由は、この戒めを守る全ての人に対する長寿と繁栄との約束です。

解説
  第五戒は両親への尊敬をはらうことを命じています。人間は本質的尊厳性は皆平等ですが、
  神様から与えられている関係があります。親子関係で代表される上下関係、水平関係など
  様々ですが、その時々にふさわしい振る舞いをなさねば知性ある人とはいえません。神様は、

ふさわしく対応することを私達に命じておられます。そのふさわしい対応とは、人の名誉を守る

事、人に尊敬を払う事、人としての義務を果たす事であります。当時のイスラエルでは、両親を

尊敬する事とは、家父長制社会においての宗教的権威を守る事でもありましたし、神の御心に従

う事でもありました。そして両親を通して、社会儀礼、善悪の判断、社会的義務等を学んだので

す。そして、両親から独立してもこの関係は神が定められた関係として、守り続けたのでありま

す。これによって、 「主が賜る土地」での民族の平安と長寿と繁栄が約束されたのであります。

しかし、今日、この関係が乱れ、守られない事において社会規範の崩壊と混乱が目を覆うばかり

であり、人間関係において相手の名誉を守ったり、社会的義務を行使したりする人々がその姿を

消しつつあります。この結果、どのような未来社会が到来するのか、神のみが知っておられます。

 

 

 

問62~60

 

問  安息日は、どのように聖別すべきですか。
答  安息日は、次のようにして聖別すべきです。その日は終日きよく休むこと。他の日なら正当な
   世俗の職や娯楽さえも止める事。すべての時間を公私の神礼拝を守るのに費やすこと。
   但し、必要やむを得ない業とあわれみの業にとられる時間は別です。

問  第四戎では、何が禁じられていますか。
答  第四戎が禁じている事は、求められている義務を怠るか不注意に果たす事、この日を、怠惰
   により・それ自体罪である事を犯すことにより・または私達の世俗の職や娯楽を必要もなく
   思い語り行う事によって、汚す事です。

問  第四戎に加えられて理由は、なんですか。
答  第四戎に加えられている理由は、神が週の六日を私達自身の職の為に使わせて下さること、
   神が第七日には特別の所有権を主張される事、神ご自身が模範を示されたこと、神が安息日
   祝福して居られる事です。

解説 
  この第四戎は、安息日を守ることについての戒めです。旧約の時代は、週の七日目(土曜日)を
  安息日としていました。しかし、新約時代になってイエスキリストが週の初めの日(日曜日)に
  復活されたので、安息日を日曜日としました。ですから、新約時代の教会は、日曜日を主の日
  として、世俗の仕事を離れ、娯楽を行わず、礼拝を守る事と定めたのです。そして、この主の日

を安息日として考えますと、これを聖なる日として、一日を神礼拝に奉げる日となったのです。
  コロサイ信徒への手紙 2章16~17節 「あなた方は、・・・安息日の事で誰にも批評されて

はなりません」 とありますように、今日の社会生活の中で公的職務についている信仰者を、律

法と言う名の下に拘束する事はできません。その人にとって、週の中で主を賛美し礼拝出来る日
  があれば、その人にとっては正にその日が安息日なのであります。神に対する礼拝は、日曜日
  だから祝福され、水曜日だから祝福されないという事はありません。神の御旨は大きく、広いの
  であり、イエスキリストがこの地上に来られた時に、古い律法は廃棄されたからであります。

 

 

問59~57

 

問  第4戒はどれですか。
答  第4戒はこれです。「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日の間働いてあなたの全ての業をせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、何の業をもしてはならない。あなたの息子、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門の内に居る他国の人もそうである。主は、六日のうちに、天と地と海と、その中の全てのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は、安息日を祝福して聖とされた」

問  第4戒では、何が求められていますか。
答  第4戒で求めている事は、神が御言葉において、はっきりと七日のうち、丸一日をご自身のための聖安息日にすると指定された通りに、その定めの時を神に対してきよく守る事です。

問  七日の内どの日を、神は週毎の安息日と指定されましたか。
答  神は、世の初めからキリストの復活までは、週の七日を週ごとの安息日と指定されました。
   そして、キリストの復活からは週の第一日を世の終わりまで続けるように指定されました。これが、キリスト教安息日です。

解説
  旧約時代は週の七日目(土曜日)が安息日とされました。そして世俗の用事を休み、一日を神礼拝に用いる事としていましたが、後にイエスキリストが復活された週の始めの日(日曜日)が安息日と指定されました。初代教会の人々は、日曜日を安息日として労働を休む事ができなかったので、日曜日の夜に集まったり、早朝に行ったりしていました。こうして日曜礼拝が定着していったのです。現代に於ける生活は多種・多様であります。まして、公職についている人々は(軍人・警察・消防)日曜日礼拝に出席する事はできません。だからと言って、律法違反ということではないのであります。一週の中で、その人に於いて休息を取れる時に、自ら神に礼拝を奉げ、イエスキリストによって救われた喜びを感謝できる日、それがその人にとって安息日と理解すればよいでありましょう。

 

 

 問56~53

 

 

問  第三戒は、どれですか。
答  第三戒はこれです。「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
   主は、み名をみだりに唱える者を、罰しないでは置かないであろう」

問  第三戒では、何が求められていますか。
答  第三戒が求めていることは、神の御名、称号、属性、規定、御言葉、御業をきよく敬虔に
   用いることです。

問  第三戒では、何が禁じられていますか。
答  第三戒が禁じていることは、神がご自身を知らせるのに用いておられるどんなものをも、
   汚したり、濫用する全てのことです。

問  第三戒に加えられている理由は、なんですか。
答  第三戒に加えられている理由は、この戒めを破る者が、どんなに人々からの罰を免れても、
   私達の神、主は、ご自身の正しい審判を免れさせはなさらない、と言うことです。

解説
  第三戒は、主のみ名をみだりに唱えることの禁止です。神は民にご自身の名を知らせました。
  「私はある。私はあるという者だ」 出エジプト3:14  ご自分の名を知らせるという事は、
  他の存在しない偶像の神々と違って、正に生きて働いておられるご自身を知らせるためでした。
  そして民と恵の契約を交わし、ご自身は民の神となり、そして「主の戒めを守り、その道に従っ

て歩むならば、主はお誓いになった通り、あなたを聖なる民とされる」 申28:9 民は宝の

民とされる事が約束されたのであります。 しかし、当時は神の名をむやみに唱える事で、人間

の思いに、神を従わせようとする事がはやっており、そのように神の名を安易に用いる事を禁じ

られたのです。神は、私達と正しく聖なる関係を築いてくださるために、ご自分の名を明らかに

されたのですから、いつも敬虔なる祈りをもって神のお名前を唱えなければならないのです。

そして、神はいつも私達の心の内を見抜いて居られますから、み名を唱える者はいつも、霊と真

理をもって、神を礼拝しなければならないのであります。そのようにしない者には、神は正しい

審判をおこなわれるのであります。

 

 

 

 問52~49

 

問  第ニ戒は、どれですか。
答  第ニ戒はこれです。「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、
   また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かっ

   てひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。私は主、あなたの神。私は熱情の神であ

   る。私を否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、私を愛し、私の戒めを守る

   者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」

問  第二戒では、何が求められていますか。
答  第二戒が求めている事は、神が御言葉の内に指定された通りの宗教的礼拝と規定の全てを、
   受け入れ、実行し、純正完全に保つことです。

問  第二戒では、何が禁じられていますか。
答  第二戒が禁じている事は、像による神礼拝、または神の御言葉に指定されていないあらゆる
   他の方法による神礼拝です。

問  第二戒に加えられている理由は、なんですか。
答  第二戒に加えられている理由は、神が私たちに君臨する主権者であられること、神が私たちの
   所有者であられること、神がご自身への礼拝に熱心をもっておられることです。


解説
  十戒の第二戒は偶像礼拝を禁じています。これは、他の神だけでなく聖書が示す神様ご自身を
  偶像によって礼拝することをも禁じています。出エジプト記32:5にありますように、イスラ

エルの民が金の子牛をもって神を祭った時に、神は怒りをもってその者たちを滅ぼされました。

見えない神を見える形をもって礼拝したいと言うのは、人間に起こる欲望でありますが、これは

神に対する侮辱であり、人間の神に近づきたいとする傲慢と高慢の表れです。私たちが、真に神

に近づきたのであれば、神が語られた御言葉に従って、神を敬い、神礼拝をなすことで、神と

の交わりの確かさに入れていただければ良いのであります。人間側の高慢さから、その押し付け

によって、その道が開かれるのではありません。神の御言葉たるイエスキリスト十字架上の贖い

において、開かれるのであります。
  「熱情の神(ねたむ神)」 とは擬人法による表現であり、人との交わりの確立のために、神は燃

えるような心を持って私たちに接していて下さる事を表現しています。それ故に、私たちは心か

らの喜びと熱心を持って、神の御心に応えて行かねばなりません。

 

 

問48~45

 

 問  第一戒は、どれですか。
答  第一戒はこれです。「あなたは私のほかに、なにものをも神としてはならない」

問  第一戒では、何が求められていますか。
答  第一戒が私たちに求めていることは、神を唯一のまことの神また私たちの神として知り、
   認めること、またそれにふさわしく神を礼拝し、神の栄光を表すことです。

問  第一戒では、何が禁じられていますか。
答  第一戒が禁じていることは、真の神を否定するか、神また私達の神として礼拝せず、
   栄光を表さないこと、神だけにふさわしい礼拝と栄光を他の何ものにでもささげることです。

問  第一戒の「私のほかに」という言葉で、私たちは何を教えられていますか。
答  第一戒の「私のほかに」と言う言葉が私たちに教えることは、万事を見ておられる神が、
   他のどんな神を持つ罪にも注目し、これを大いにきらわれる、ということです。
解説
  道徳律法は十戒の中に要約されています。そしてこの戒めには積極的側面(求められていること)、
  消極的側面 (禁じられていること)があります。
  〇 ここでは唯一神信仰を求めています。それは、神を唯一の真の神として認め、私たちを造ら

れ、保持・統治されているお方として、認める。
  〇 この神のみを礼拝する。
  〇 この神以外を礼拝することを禁じる。
  私達の人生は、唯一の神を信じるときに、秩序ある正しいものとなり、神のみを頼って生きることができます。私たちが、財産や、富や、地位や、自己満足の中に生きるときに、それらは不確かな人生をもたらし、その増減に揺れ動く人生となってしまいます。しかし、唯一の神、唯一の救い主、唯一の聖霊に頼るときに、つまり三位一体の神を信じる時に、人生は確かなものとなり、真の心の平安と秩序がもたらされるのであります。

 

 

 問44~43

 

問  十戒の序言は何ですか
答  十戒の序言は次の言葉にあります。
   「私はあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」

問  十戒の序言は私たちに何を教えていますか。
答  十戒の序言が私たちに教えている事は、神が主、また私達の神でもあがない主でもあられるので、私たちはそのすべての戒めを守る義務がある、ということです。

 

解説 
  道徳律法は、十戒の中に要約的に含まれており、エジプトの奴隷状態から救出されたイスラエル

の民が、シナイ山で神の民となるときに与えられた契約であり、民として生きる上での基本的な

戒めです。
  この序言は、律法を与える神の名乗りであります。そして次のことを言われています。
   神が主であること: ここで「主」と訳されている言葉は、固有名詞「ヤハウェー」です。
    とくに歴史の中で、約束を忠実に果たして来られた神を表す名です。この神に私たちは真実

  に答え、その約束を忠実に果たさねばなりません。
   神が私たちのかみであること: 神は全世界の創造者であり、その全てを守り、保全されて

  おられる方です。そして、私たちの神となって下さり、何時も私たちと共に居て下さり、私

  たちを守って下さいます。ですから私たちは、その歩みに相応しい者として、これらの道徳

  律法を守って生きていくのです。
   神が私たちの救い主であること: 神はエジプトの地、奴隷の家から導き出してくださり、

  救い出して下さいました。その感謝として、私たちは道徳律法を守るのです。
    この序言は、私たちが救われた者として、感謝する者として、道徳律法を守るのであり、表

  面的な律法主義を言っているのではありません。十戒は単なる命令でなく、私達が神に感謝

  するために自然の気持ちから出るところの当たり前の行いであります。

 

 

 問42

 

問  十戒の要約は、何ですか。

答  十戒の要約は、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、主なる私達の神を

   愛する事、又自分を愛するように、私達の隣人を愛する事です。

 

解説

  道徳律法は十戒の中に要約的に含まれており、倫理の基礎が教えられています。倫理の基礎は

神への愛と人への愛です。どちらか一つでは片手落ちであり、二つを愛すればこそ私達は立派な

品性と人格を持つ者となるのであります。神への愛は、心を無にしてひたすら神を愛する事でありま

すが、神はそれ以上に私達を憐れみ愛してくださっているのであります。隣人への愛は、当然自分さえ愛す事の出来ないも者には成す事ができませんし、人の苦しみ、悲しみを理解する事の出来ない者は、人を愛する事はできません。私達の罪の赦しは、イエスキリストの十字架の贖い以外には成す事ができません。罪人が、人の罪を購うことができないのは当然です。罪なきお方のみその業を果たす事が出来るのです。 

問41

 

問  道徳律法は、どこに要約的に含まれていますか。
答  道徳律法は、十戒の中に要約的に含まれています。

解説
  神は人に悪を選ばず善を選ぶように命じられています。これを道徳的律法と言います。
この律法は人の心の中に刻まれており、どのような人も善悪を見分ける判断力は基本的に備わっています。これを良心と言いますが、私達の先祖アダムが犯した罪故に、この良心が歪み悪を選択するようになってしまいました。神は、今日この律法を聖書を通して教えて下さっており、聖書を読む事において日々この律法を思い起こす事が出来るのであります。そして、この律法を通して私達は、道徳全体を知る事が出来るのであります。その詳細については、ウェストミンスター大教理問答 問91~152 をご覧下さい。

 

 

問40

 

問  神は人の服従の基準として、何を最初に啓示されましたか。
答  神が人の服従のために最初に啓示された基準は、道徳律法でした。

 

解説
  神が人に求められる義務は二つです。

 道徳的義務(問40~81)
 信仰的義務(問82~107)
  道徳律法とは人にとって、何が善であり、何が悪であるかを指し示しています。
  神は人を御自分の似姿として造られ、神様の御性質と同じような性向を持つものとされました。
  しかしながら、最初の先祖であるアダムが罪を犯したことにより、人は善を選ぶ者でなく、悪を
  選ぶ者となってしまったのです。しかし、神はその事を憐れみ、罪ある人を救うためにイエス様
  をこの地上に送られ、十字架に架けられる事によって、イエス様を信じる者を永遠の罪の定め
  ら救われ、罪無き者として宣言されたのです。でも弱い人は、思いや、言葉や、行いで罪を犯し
  続けています。この人に対して、神は服従の基準として、道徳律法をお与えになりました。
   私達は、この事を充分に心に留め、聖書を通して自分の罪を知り、永遠の救いに至る為の
 イエス様の真理の道を歩んで行かねばなりません。己の罪を悔い改め、新しい心で、神に従う
 道筋を知る為に、この道徳律法を知らねばなりません。

 

 

 

 問39

 

問  神が人に求めておられる義務は、なんですか。
答  神が人に求めておられる義務は、神の啓示された御意志に服従することです。

解説
  神様に対する私達の義務は、二つです。
   道徳的義務(問41~81)
   信仰的義務(問85~107)

    であります。
   隠された御意志としての摂理
    神は全て被造物を守り、保全して下さっております。それで、人の人生をも守り導いて
    おられます。嬉しい時、楽しい時、悲しい時、苦しい時、辛い時、全てが神のご意志が
    働いております。それらを信仰的に受け止め、祈り、感謝し、忍耐して行くことで、前向
    きに生きていけるのであります。
   啓示された御意志としての命令
    「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛する」「隣人を自分の様に愛する」
    この二つが、イエス様から与えられた命令であります。これに服従することで、私達は
    この地上に於ける歩みを全うすることが出来るのであります。
私達は、自分の将来に何が起こるか予見することは出来ません。ですから神を愛し、人を愛する
ことによって、神の御手の中で生きることを確信し、神の知恵に頼り、己を誇らず全てに対して、
謙虚に生きていく、これこそが信仰者としてのありかたなのです。神の御意志(命令)は聖書の
中に記されておりますので、読み、聴き、見て、信仰と生活の羅針盤として下さい。

 

 

   問38

 

問  信者は、復活の時、キリストからどんな祝福を受けますか。

答  信者は、復活の時、栄光あるものによみがえらせられて、審判の日に、公に受け入れられ
   無罪と宣告され、永遠に、全く神を喜ぶことにおいて完全に祝福された状態にされます。

解説
  聖書では信者が死んで神の国に入ることを終着点とはみておりません。救いの真の完成の時
  とは、イエスキリストが再びこの世に来られて最後の裁きをされる時であります。この時は、
  信者にとって、正に復活の時なのであります。そしてこの時には、キリストから多くの祝福が
  頂けるのであります。
   栄光ある体として復活する。これはこの地上における苦しみや、悲しみや、絶望から解放
    された体であります。
   神から無罪を宣告されます。信者は、イエスキリストを信じ、洗礼にあずかり、聖なる者
    として、罪が赦され、義しい者とされましたが、この世では完全に神様から与えられた、
    戒めを守ることは出来ません。あくまでも不完全な者であります。しかし、最後の時に
    それまでの信仰の確信に生きてきた事実に応じて、公的に無罪宣言が行なわれます。
   そして神と共に喜ぶ生活を送ったと認められた者には、完全な祝福が与えられます。
    信者への完全な祝福とは、「神の栄光をあらわし、神を喜ぶこと」(問1)を達成した者が、
    神から与えられる喜びであり、これは「神との交わりの中に生きる」事であります。こうし

    て、神の愛が完成し、永遠の命に至るのであります。信者は、日曜日の主の日の礼拝に
    おいて、この喜びを地上で事前に味わっているのであります。

 

 

   問37

 

 

  

問  信者は、死の時、キリストからどんな祝福をうけますか。

答  信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光にはいります。信者の体は、依然として
   キリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます。

解説
  個人の死は、残された者にとっては別離の悲しみの中におとされます。この事実は信者に
  とっても同じことであります。死者を悼み、悲しみに沈むことは当然であります。でも信徒は、
  死後の恐れや不安から救われており、悲しみの中にも慰めと希望が与えられています。
  信者の死は、魂と肉体の別離であり、魂は全く聖くされ、神の御許にまいります。確かに、
  信者とはいえこの世にあっては罪をおかし続けてしまう弱い者でありますが、神の憐れみと
  赦しによって、神の御国に迎え入れられます。それ故に、信者はそれを信じていますから、
  死にたいする恐怖を抱くのでなく、希望と祝福の中に生きているのであります。そして、
  神の御国で御手に抱かれ、栄光の光に包まれるのであります。
  肉体についてはイエスキリストが再臨されるまで、休息が与えられ、復活の希望の中で
  イエスキリストに霊的に結び付けられたままで休み、イエスキリストが来られた時に、
  これまでとは違った、全く新しい体として復活するのであります。
  

 

 

   問36

 

 

問  この世で、義認、子とされること、聖化に伴い、あるいはそれから流れ出る祝福とは

   何ですか。

  答  この世で、義認、子とされること、聖化に伴い、あるいはそれから流れ出る祝福とは、
     神の愛の確信、良心の平和、聖霊における喜び、恵みの増加、終りまで恵みの内に
     堅忍することです。

解説
  イエスキリストを信じる者がこの世で受ける祝福は、義認(罪を赦され、義しい者とされ、神の
  国へ入ることが赦される)、子とされる(神の子と認められる)、聖化(聖霊によって少しずつ
  聖なる者へと、変えられていく)、これがその中心でしたが、これだけに限定されるばかりでなく
  多くの祝福があります。

   神の愛の確信: 神は私達をただ一度義と認められ、子としてくださったので、父なる神の
           愛を確信でき、どの様な境遇にあっても神の愛を確信できるのであります。
   良心の平和: 神は私達をただ一度義と認めて下さったので、自分の良心が苦しむ時でも、
           神が赦してくださったことを思い、良心の呵責に耐えることの出来る力を
              与えて下さっています。
   聖霊における喜び: 聖霊において神とイエスキリストに結び付けられている喜びであり
              ます。どの様な悲しみも克服できる喜びであります。
   恵みの増加: 日々聖霊によって、聖い者とされていく時に、心の目が開かれ、神を心から
          讃美しようとする思いが強くなっていきます。そして、神と人とに対する愛が
          増していきます。
   終りの時まで忍耐する: イエスキリストが再臨されて、救いが完成する時まで、私達の
           信仰は堅く守られ、どの様なことがあっても、イエスキリストから
           その関係が切られることはありません。イエスキリストは全ての
           信仰者に真の堅忍を与えていて下さいます。

 

 

 

   問35

 

問  聖化とはなんですか。

答  聖化は、神の一方的恵みによる御業です。それによって私たちは、人間全体にわたり神の
  かたちにしたがって新しくされ、ますます罪に死に義に生きることができるものとされるのです。

解説
  聖化とは神が信仰者を御自分の御旨に従って、聖いものにして下さると言う神の御業です。
  人は、アダムの背反によって堕落してしまったので、神から与えられた良き性質を失って
  しまいました。この人間としての素晴らしさを、聖書では神のかたちと表現しています。この
  神のかたちとは次の三つから理解できます。
   真の知識: 神を知り、人生の目的とこの被造世界を正しく認識することの知識です。
          人間は、科学的知識は進歩させて来ましたが、人生を正しく生きる本当の
          知恵を失って来ました。
   真の義: 善悪をよくわきまえ悪を選ばないとする義しさのことです。堕落後の人間は、
         善をしようとする心があるにもかかわらず、悪を選ぶ者となったのです。
   真の聖: 唯一の神を崇める宗教性を失ってしまいました。何となく神のようなものを
         拝む宗教心はあるものの、その神がどの様な方なのか分かりません。
         それで自分で木や石に神のようなものを刻み、あるいは太陽や月や木の
         柱などを、神と思い拝むようになってしまいました。この様に宗教的に倒錯
         した者として堕落してしまったのです。
  聖化は、神が私達をそのかたちを回復する事ができるまで支え守って下さる業であり、
  その神の似姿が回復する事が出来るまで、忍耐し待っていてくださいます。それは、私達が
  イエスキリストと深く結び付いて居る事から可能となるのであります。

 

 

   問34

 

問  子とされることとは、なんですか。

答  子とされることも、神の一方的な恵みによる決定です。それによって私たちは、神の子等
    の数に入れられ、神の子等のあらゆる特権に権利を持つものとなるのです。

解説
  信仰者がこの世で神様から受ける祝福は、義認、子とされること、聖化が中心でした。ここでは、
  子とされることを学びます。
  人間は本来神から造られたものですから、神の子ではありません。つまり創造者と被造物の
  関係であります。また、人間は神との約束を破り、神に背き、神から離れて生活する者となった
  のです。故に、神の裁きを恐れて生活しており、神を父と仰ぐ関係ではありません。しかし、
  この事を憐れんで下さった神は、イエスキリストを信じる者を神の子として認めると宣言して
  下さいました。そして神の子としての特権を与えて下さいました。
  その特権とは、
   神の愛を確信できることです。世間でも多くの愛の形態がありますが、親子の愛は最も
    安定しているものであります。それは失われる可能性が最も低いものです。子は、父母の
    愛には無条件で応えられるものであります。
   神の国を嗣ぐ者とされることで、神の国の特権を享受できるのです。
神の一方的な決定により、一度神の子とされた者は、当然神のご意志に従って生きる者となった
のですから、神は忍耐をもって私達が義しく聖く生きることに期待をもって見守っていて下さいます。
そして一度子として認めたからには、あの「放蕩息子」の譬えのように、何時までも子として
認めて下さっています。

 

 

   問33

 

問  義認とは何ですか。

答  義認とは、神の一方的恵みによる決定です。それによって神は、私達のすべての罪を
    赦るし、私達を御前に正しいと受け入れて下さいます。それはただ、私達に転嫁され信仰
    によってだけ受け取るキリストの義のゆえです。

解説
  義認とは本来人間の死後に、つまりイエスキリストが再び地上に来られる時に立つ所の神の
  法廷で、神様から無罪であると宣告される事を意味しております。そしてこの判決は最終判決
  ですから変更はありえません。しかし、私達がイエスキリストを「信じます」と告白した時に、
  この最終判決の先取りとして「あなたは義しい者である」と宣告され、無罪が確定するのです。
  「義しい人」と認められる為には、罪を犯さないようにこの地上での信仰と生活を、唯一の規準
  としての聖書に従って送らねばなりません。そして、神を愛し、隣人を愛さねばなりません。
  またこの地上の生活で、時には、思いや、行いや、言葉で罪を犯してしまう私達がどうして、
  罪が無い者とされるのでありましょうか。それは、イエスキリストの十字架上の身代わりの犠牲
  において、罪を償ったと認められるからであり、人類の代表者としてイエスキリストが果たして
  下さったからであります。そしてそのイエスキリストの義さが、「転嫁」されるのであります。
  この義認の恵みは、信仰によって受け取れるのであり、私達は、イエスキリストに接木され、
  この世でもイエスキリストと一体となって生きていけるので、最後の審判に対する恐怖も無く、
  平安に、また忍耐をもって、この地上での生活を全うできるのであります。

 

 

問32

 

問  有効召命されている者は、この世で、どんな祝福を分け与えられますか。

答  有効召命されている者は、この世で、義認、子とされること、聖化、この世でそれらに伴い、
    あるいはそれらから流れ出るいくつもの祝福を分け与えられます。

解説
  この世での祝福は次の四つです。
   義認: 神様が罪を赦され、正しい者として受け入れて下さいます。
   子として下さいます: 神様の子として、神を父と称する事を許して下さいます。
   聖化: 聖霊によって人間性が聖められ、だんだんと神様に喜ばれる者となっていきます。
   その他の祝福: 私達は忍耐して信仰を守り続ける事で、聖霊の働きにより、だんだんと
    信仰の輝きが増して、平安、喜び、愛する事の中におかれ、神様・イエス様の御存在を
    確信できるようになって行きます。
  そして、義認・子とされること・聖化は、私達がこの世で幸せになる為の土台であり、それによっ
  て堅き信仰告白の上に立って、私達は人生を過ごすのであります。最後の時に、イエス様が
  この世に再臨され、真に正しい信仰生活を送った人々を、御国へと招いて下さるのです。
  その事に希望と慰めと忍耐をもって信仰者は生きて行かねばなりません。

 

 

問31

 

問  有効召命とは何ですか。

答  有効召命とは、神の御霊の御業です。これによって御霊は、私達に自分の罪と悲惨と
    を自覚させ、私達の心をキリストを知る知識に明るくし、私達の意思を新しくすると言う
    仕方で、福音において一方的に提供されるイエスキリストを私達が受け入れるように
    説得し、受け入れさせて下さるのです。

解説
   私達は聖霊によって信仰を与えられ、信仰によってキリストに結び付けられる事によって
   キリストの救いを与えられます。聖霊は必ず効果を伴うように私達を招かれております。
   そして、信じるように招かれた人は、必ず救われるのです。この業が聖霊の働きです。
   そして、私達が罪と悲惨について自覚するように、キリストについてに正しい知識を得られ
   るように、そして私達を全く新しいイエスキリストの衣を着るようにと、して下さいます。
   この三つの事を通して、聖霊は、私達が主イエスキリストを受け入れさせて下さるのです。
   私達が自分の努力であるいは行いで信仰に至るのではなく、全く聖霊なる神様が私達の
   心の中に働いて下さり、信仰する事が出来るように導いて下さるのです。

 

 

問30

 

問  御霊はキリストの手に入れたあがないを、どのようにして私達に当てはめて下さるのですか。

答  御霊がキリストの手に入れたあがないを私達に当てはめて下さるのは、私達の中に信仰を
    働かせ、それによって私達を有効召命においてキリストに結びつけることによってです。

解説
  キリストの救いは、キリストが私達と結びついて下さる事によって与えられます。そしてキリ

  ストが得て下さった救いの祝福の中に入れられるのです。それは次の順序によってなされます。
   キリストが十字架に架かって下さった事で、私達罪人があたかも十字架に架かり罪の償い
    を果たした者であると神様から見なされ、罪無き身分の者として無罪を宣告されます。
   神の御子であるキリストに結び付いた者として、神の子として認めて下さいます。
   キリストと結び付く事で、キリストの似姿に倣う者として、聖霊の働きによって日々聖なる     者としてこの地上において作り変えられていきます。そしてキリストが再び来られる時に、
    完全に聖なる者とされるのであります。
  私達がキリストと結び付く唯一の手段は、信仰です。この信仰は、聖霊の恵みにより与えら
  れるものであり、人間側の条件によって成されるものではありません。聖霊なる神様のまねき
  を受けた者は、確実に愛され、救われるのであります。

 

    問29

 

問  キリストが手に入れたあがないは、どのようにして私たちに分け与えられますか。

答  キリストの手に入れたあがないが、私たちに分け与えられるのは、キリストの聖霊が
   それを私たちに有効に当てはめて下さることによってです。

解説
  ある教会では救いの惠を管理し、分け与えているのは教会であり洗礼や儀式において
  人々に分け与えられると言っていますが、このような教えは聖書的ではありません。
  聖書では信徒全員が神に近づくことの出来る者であると言っております。(1ペテロ2:9)
  救いを分け与える聖職者と一般信徒とが分かれているのではありません。イエスキリスト
  に結ばれることで私たちは、永遠の命を頂いているのであります。教会はそのようなキリ
  ストと結ばれた者達が集っている所であり、夫々の信徒がキリストから惠を頂いているの
  であり、教会がその役割を果たしているのではありません。その役割を果たしておられる
  のは聖霊です。聖霊は私達の心を照らして下さって信仰に至らせ、キリストと結び合わせ
  て下さっているのです。私達が、聖霊に導かれ祈る時に、信仰の思いが強められイエス
  キリストに結ばれている事を確信できるのであります。

 

問28

 

問  キリスト高挙は、どの点にありますか。

答  キリストの高挙は、次の点にあります。キリストが三日目に死人の中からよみがえられた
    こと、父なる神の右に座しておられること、終わりに日に世を裁くために来られることです。

解説
  キリストは高挙の状態でも、聖霊を通して救い主のお働きをしておられます。キリストは十字架
  に架かられ、死んで墓に葬られましたが、三日目に復活されました。そして、天に昇り、神の右
  の座(権威の座)に就かれました。そして聖霊の働きによって、私達は神様を理解し、信じるこ   とが出来るようになりました。そして私達が正しい者となるように何時も神様に執成しをして下   さっています。そしてイエスキリストが再びこの地上に来られる時には、正しい者、悪しき者を   振るい分けられ、正しい者を天の御国へ、悪しき者を永遠の滅びの中に投げ込まれます。正しい   者は、最早苦しみも、悲しみも、憂いも無く神様に涙を拭いとって頂き、永遠の命に預かる事と   なります

 

 

問27

 

問  キリストのへり下りは、どの点にありましたか。

答  キリストのへり下りは、次の点にありました。キリストが生まれられたこと、それも低い
   状態であられたこと、律法のもとに置かれたこと、この世の悲惨と神の怒りと十字架の
   呪いの死とを忍ばれたこと、葬られたこと、しばらく死の力のもとに留まれたことです。

解説
  地上でのキリストの生涯すべてが、神の子としての栄光を捨てたへりくだりの生涯でした。
   子なる神がその栄光を捨てられ人となられたことが、へりくだりそのものです。
   馬小屋での誕生が、この世の中での最も低い誕生の仕方を表現しています。
   神への徹底的な服従によって永遠の命を獲得するために、神の律法に服従されました。
    キリストは、私達の罪人の代表者として十字架に至るまで、従順に神に従いました。
   キリストは人間の悲惨な状態味わい、それをよく知っておられました。
   十字架上のキリストの叫びは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」
    でありました。これは、私達罪人の身代わりとしてのキリストの苦しみと悲惨を表現して
    います。
   葬りと死の力のもとに留まれたのは、栄光の復活の時まで、しばらく忍耐の時を過ごされた
    ことを表現しています。こうして、キリストはこの世にあって、へり下りの状態で預言者・     祭司・王としての役割を果たされたのであります。

 

 

問26

問  キリストは、どのようにして王職を果たされますか。

答  キリストが王職を果たされるのは、私達をご自身に従わせ、治め、守って下さる事、
   またご自身と私達をあらゆる敵を抑えて征服して下さる事においてです。

解説
  旧約では、王は神の僕として民に尽くすのが職務でありました。国の秩序を保ち、敵から民を
  守っておりました。新約時代はイエスキリストがダビデ王の家系から生まれて、王としての
  職務を果たされました。それは地上の権力としての王ではなく、霊的王国の王としての役割
  でありました。イエスキリストは私達をイエスキリストの体なる教会の一員として従わせて
  下さいます。また教会を治めて下さいます。何時も教会を守って居て下さいます。そして、
  教会に敵対する勢力から脅かされる事がないように、私達が挫折したり、危険な目に合わない
  様に守っていて下さいます。私達がイエスキリストを信じるということは、この様に王たる
  イエスキリストが私達と共にあり、守り、導いて下さる事を確信するという事であります。

 

 

問25

問  キリストは、どのようにして祭司職を果たされますか。

答  キリストが祭司職を果たされるのは、神の正義を満足させて私達を神に和解させる為に、
   ご自身をいけにえとして唯一度だけささげられた事、また私達の為に執成し続けて下さる
   事においてです。

解説
  旧約の時代祭司は、神殿に仕え、犠牲を捧げて民の為に執成しをする事が職務でありました。
  新約ではイエスキリストは大祭司としての役割を果たすために、ご自身をただ一度だけ、犠牲
  の子羊として奉げて下さり神と和解をさせて下さいました。「神の正義の満足」とは、私達の
  罪が赦される事で神の正義が損なわれず、むしろ貫かれる事を言い、イエスキリストが人間の
  代表として罰を受けて下さった事で神が満足されたのであります。「神に和解させる為に」とは、 
  神と人との敵対関係が取り除かれ、神の怒りが解け、愛の交わりが回復し、人に永遠の命が
  与えられるのであります。今イエスキリストは天上で神の右に座し、聖霊を通して私達の為に、
  執成しをして下さり、祭司の役割を果たして下さっているのであります。

 

 

問24

問  キリストはどのようにして預言者職を果たされますか。

答  キリストが預言者職を果たされるのは、ご自身の御言葉と御霊によって、私達の
   救いのために神の御意志を私達に啓示して下さる事においてです。

解説
  旧約時代預言者は、神の御心をイスラエルの民に伝える役割を果たしておりました。
  新約時代になって、イエスキリストは神の一人子として、深く神のみ旨を私達に知らせて
  下さいました。説教や奇跡や御言葉を通して神様の御心を示して下さいました。また、
  神様のご計画に従って、十字架に架かって下さり、私達を罪なき者として下さいました。
  今イエスキリストは、神の右に座しておられ、天上から聖霊を通して、神様の御心を伝えて
  下さっておられます。そして私達の心の内を照らして下さり、神様の愛が理解できるように
  して下さっています。私達は、自分の力だけでは神を知る事は出来ません。預言者としての
  イエスキリストが啓示して下さらなければ、神を知る事が出来ないのです。

 

 

 

問23

 

問  キリストは、私達のあがない主として、どういう職務を果たされますか。

答  キリストは、私達のあがない主として、預言者、祭司、王の職務を、へりくだりと
   高挙とどちらの状態においても果たされます。

解説
  旧約聖書の時代、預言者は神の御心を民に伝える役割を果たしておりました。そして民として、
  生きる指針を示しておりました。イエスキリストは神の一人子として、神の御心を聖書を通して、
  み言葉を通して伝えて下さいます。そして、十字架に架かる事で神の愛の御旨を示して下さい
  ました。現在は神様の右の座から、聖書と聖霊を通して私達の心に働きかけられ、私達に、
  イエスキリストを受け入れる信仰を起こして下さいます。私達は、自分の力では神様の愛を
  真に知る事は出来ません。そこには預言者職を果たして下さるイエスキリストがおられるから
  こそ、その事が理解できるのであり、イエスキリストを救い主として受け入れる事が出来るので
  あります。

 

 

 

問22

 

問  キリストは、神の御子でありつつ、どのようにして人になられたのですか。

答  神の御子キリストが人になられたのは、聖霊の御力によって処女マリヤの胎に宿り、
    彼女から生まれながらも、罪はないという仕方で、真実の体と理性的霊魂をおとりに
    なる事によってでした。

解説
  キリストは問21で学びましたように、真の神であり、真の人であり、そして一つの人格を
  持っておられました。そして完全な人間となられ、真実の体と理性的霊魂(人間の魂)
  をもっておられました。そしてキリストは罪の無いお方でありました。それは、アダム以来
  全ての人は罪人ですが、キリストは罪の無い人となって、人間に救いをもたらされました。
  また十字架に架かって人々の罪を負うためにもキリストは罪の無い方でなければなりま
  せんでした。このように人間でありながら罪の無い人となれたのは、聖霊のお働きによる
  ものでした。聖霊は、キリストが人となられる時に完全に働かれて、キリストの人間性を
  罪から守られたのです。処女から生まれたことは、聖霊による奇跡でありましたが、
  聖霊によって生まれたからこそ、キリストは聖い方であり、罪の無いお方であったのです。

 

 

 

問21

 

問  神の選民のあがない主とは、どなたですか。

答  神の選民の唯一のあがない主は、主イエスキリストです。この方は、神の永遠の
   御子でありつつ人となられました。それで、当時も今もいつまでも、二つに区別された
   性質、一つの人格をもつ、神また人であり続けられます。

解説
   イエスキリストは神という御性質と人という御性質の二つを持っておられます。
   神としてイエスキリストは、存在、知恵、力、聖、義、善、真実において永遠、無限、不変
   のお方です。人としてのイエスキリストは、人間としての色々な弱さ、たとえば、疲れる、
   悲しむ、悩む、飢える、渇くなどの弱さを持っておられました。しかし、イエスキリストは、
   神として人として統一された人格を持っておられました。ですから、救い主としてのイエス
   キリストは真の神であり、真の人であったのです。それ故に、人類の代表者となって
   人々の罪を背負い十字架上で死んで下さったのです。また真の神であったからこそ
   人の罪への刑罰である所の十字架上の死を受ける事がお出来になったのです。こうして
   十字架上のイエスキリストの死と復活を信じる者全てが救われる事となったのです。

 

 

問20

 

問  神は全人類を、罪と悲惨の状態のうちに滅びるままにされましたか。

答  神は、全くの御好意によって、永遠の昔から、ある人々を永遠の命に選んでおられたので、
    彼らと惠の契約を結ばれました。それは、一人のあがない主によって、彼らを罪と悲惨の
    状態から救助して、救いの状態に入れるためです。

解説
   ここでは神の救いのご計画の中心である「惠の契約」について教えております。神が
   人と最初に結ばれた契約は 「行いの契約」(業の契約)でした。問12 その内容は、
   人の義務は、神への完全な服従であり、それを守れば神は永遠の命を約束して下さい
   ました。しかし、それを破れば刑罰として永遠の死を定められたのです。ですから、罪を犯す
   者は罪と悲惨の状態に落とされたのです。しかし、神はその事を憐れみ人を救うために、
   惠の契約を結んで下さいました。その為には、人はあがない主であるイエスキリストを信じる
   ように、イエスキリストは人の罪を救うために人の身代わりとして、十字架において、人に
   代わって刑罰を受けてくださる事、そして完全な服従を人に代わって果たされる事を、

   約束して下さり、事実それを果たされました。これによって永遠の昔からが救いに
   予定していた人々が救われる事になったのであります。

 

 

 問19

 

問  人が堕落した状態の悲惨とは、なんですか。

答  全人類は、堕落によって神との交わりを失いました。今は神の怒りと呪いの下にあり、
    その為、この世でのあらゆる悲惨と死そのものと永遠の地獄の刑罰との責めを負わさ
       れています。

解説  
   堕落の結果、人類は罪と悲惨の状態に堕ちました。それは、神との交わりを絶たれる事、
  神の怒りと呪いの下にある事、この世の悲惨を味わう事、永遠の刑罰としての死を味わう
  事などであります。ところが、神様はこの事を憐れまれ、その一人子をこの地上に送って
  くださり、イエスキリストを信じるものが一人も滅びないようにして下さったのです。
  イエスキリストの十字架は、私たちと神様との和解を実現して下さり、神様の怒りと呪い
  を身代わりとなって受けて下さり、私達を無罪として下さったのです。このように、罪から
  解放され自由になった私たちですが、いまだ残存する罪ゆえに、思いや、行いや、言葉で
  罪を犯してしまう弱い者です。それでイエス様は聖霊を通して、私達を日々聖い者となる
  為に、働いて下さっております。

 

 

 

 問18

 

 

問  人が堕落した状態の罪性は、どの点にありますか。

答  人が堕落した状態の罪性は、次の点にあります。すなわち、アダムの最初の罪の
    罪責を負うていること、原義を失っていること、人の性質全体の腐敗つまりいわゆる
    原罪があること、そこからあらゆる現行罪が生じていることです。

解説
   私達が罪人であると言うときに、次のような側面があります。それは最初の人アダムは
   人類の代表として神様のご命令に背きました。それでその子孫たる私達は、アダムの
   背きの責任を連帯して負う者となったのであります。そして、創造された時の「神の似姿」
   を失う者となり、神様の知識・義・聖などの性質を喪失致しました。神様と世界を正しく悟
   る事も出来なくなり、善を行なうより悪を好む者となり、偶像を崇拝する者となりました。
   このように創造された時には、素晴らしさを持ち、神様から「はなはだ良きもの」としての
   性質から罪に堕ちた事で、思いと、行いと、言葉で罪を犯し続ける者となりました。
   しかし、神様はその事を悲しみ、憐れみ、私達が果たすべき罪の刑罰を、愛する一人子
   イエスキリストの十字架において赦して下さったのです。イエスキリストにおいて、私達
   は、罪を犯すことの無い身分としていただき、新しい衣を着た者として、罪・罪責を克服する
   者として、新しく生まれ変わらせて下さったのです。

 

 

 

  問17

 

問  堕落は、人類をどんな状態におとしましたか。

答  堕落は人類を、罪と悲惨の状態に落としました。

解説
   堕落の結果は、人類を罪と悲惨の状態に落としました。私達はこの現実から救われなければ
   ならないのです。これに関して世の多くの宗教は、現世的なごりやくを約束しますが、人は悲
   惨からだけでなく、罪からも救われねばなりません。この罪からの救いがなければ、悲惨から
   の解放はないのであります。貧しさ、病気、家庭的不和、人間関係、自己嫌悪これらの原因は
   自分の心の中に潜む罪がなさせる業です。罪は神様の愛を見失い、神様から離れたところに
   自らをおくことから生じるものであります。ですから神様との関係を正常なものに戻す事にお    いて、神様は人を義しいものと認めてくださるのです。その間に立って、執成しをして下さる    方がイエスキリストであり、私達の救い主であられるのです。

 

 

問16

 

 

問  アダムの最初の違反で、全人類が堕落したのですか。

   それで、普通の生まれ方でアダムから出る人類は、彼の最初の違反において、彼にあって
   罪を犯し、彼と共に堕落したのです。

解説
   最初の人アダムの罪が全人類を堕落させました。それは遺伝のためということでなく、神様と
   のお約束は全人類を代表していたアダムがそれを破った事によって、全人類が堕落したと言う
   事です。その約束(契約)は、神様に従って生きるという契約であり、業の契約と言われてい    ます。そのしるしは、禁じられた木の実を食べない事でありました。こうして、アダムが代表    する全人類が、神様に背く者となり、霊的な健康状態から堕落してしまったのです。こうして    全人類は神様に対して、連帯責任を負う者となったのであります。「普通の生まれ方」という表    現は、聖霊によって乙女マリアからお生まれになったイエスキリストを除く人々を指していま    す。

 

 

問15

問  私達の最初の先祖達を、創造された状態から堕落させた罪とは、何でしたか。

答  私達の最初の先祖達を、創造された状態から堕落させた罪とは、
    彼等が禁断の木の実を食べた事でした。

解説
  罪とは神様のご命令に背くことです。最初の先祖であるアダムは、神様がしてはいけない
  と命じられた事を行なってしまったことです。この禁じられた木の実とは、「善悪を知る木の実」
  と言われています。これは食べると人を利口にする木の実ではありません。この木の実を食べ
  ると賢くなると言ったのは蛇の誘惑の言葉であり、神様の言葉ではありません。人は、木の実を
  食べない事で、善を選び、悪を避けることを神様から示されていたのですが、サタンの誘惑に
  負けてしまったのです。同時にこの木の実は、神様との契約の象徴でもあり、神様を愛し、
  神様に従うことをこのような見える形で、アダムに示されたのです。つまり、食べたから罪に
  堕ちた、と言う事でなく食べる事によって、神様の愛に背を向け、神様から隠れて生きていく事   を選んでしまったのです。そしてはなはだ良く神様の似姿に造られた人間が、神様との交わりを
  絶たれ、罪の中に死ぬ者となったのであります。

 

 問14

 

問  罪とは、何ですか。

答  罪とは、神の律法への一致に少しでも欠けること、あるいは、
    神の律法にそむくことです。

解説
    聖書によれば、罪とは、神の律法(人が生きるべき在り方についての神の定め)に
  従わないことです。この神の命令は最初に人間が造られた時に、人の心に刻まれ
  ましたが(良心として)、人は禁じられた木の実を食べて堕落したために、この律法
  が分からなくなってしまいました。神は、聖書を通してもう一度私達にこの律法を明
  示されており、その中心点は、神と人へ愛を行使することであります。また、律法に
  従わない事は、禁じられていること(殺人、盗み、姦淫)や、命じられていること(父母
  を敬う、兄弟姉妹を愛する、隣人愛)などを行なわない事も含まれます。

 

 

問13

 

問  私達の最初の先祖達は、創造された状態で続きましたか。

答  自分の意志の自由に任されていた私達の最初の先祖達は、神に罪を犯す事によって、
   創造された状態から堕落しました。

解説
  ここでは最初の人であったアダムの堕落を教えています。人間には悪い心、犯罪を犯してしまう
  弱い心があります。神様は御自分の姿に似せて人を造られ、掟を与えられましたが、人は
  それを破ってしまい、原罪を持つものとなり、罪と悲惨の中に落ち込んだのです。この責任は
  人にあります。人は、自分の責任で決断したのでありますから、神様にその責任はありません。
  「意志の自由」は、神と人との交わりに不可欠なものです。神は、人間をロボットとして造られ   たのでなく、自分の決断において神に従うか、、そうでないかを決める事が出来る様に造られたの
  です。つまり、神に従わないと決めたのであります。ここから、人間社会における多くの罪の出
  発点となったのであります。

 

 

問12

 

 

問  神は創造された状態の人に、どのような特別の摂理の行為をとられましたか。

答  人を創造された時、神は人に、完全な服従を条件として命を契約されました。
    しかし、善悪を知る木の実を食べる事は、死を制裁として禁じられました。

解説 
  問12では、神と人間の間の最初の契約について教えています。契約とは、
  お互いの当事者どうしで義務を負いあう関係に入る事であり、神は人間の創造者
  として、人との関係に入って下さいました。そして、この契約を「行いの契約」「命の
  契約」とよんでいます。そして、人の義務は神に完全に従うこと、神の義務はそれ
  が守られれば人に永遠の命を与えることでありました。そしてもし人がその契約を
  守らない時には、死をもって罰せられる事を約束したのであります。そして、神に
  従う事で祝福と平安が与えられ、従わなければ神から罰せられるのです。
  後に、神はこの契約を破って死ぬ事となった人を憐れまれ、神の独り子をこの
  世に送られたのです。

 

 

 問11

 

問  神の摂理のみ業とは、なんですか。

答  神の摂理のみ業とは、神が、最もきよく、賢く、力強く、全ての被造物と
   そのあらゆる動きを保ち、治めておられることです。

解説
  神は創造と摂理によって全ての神のご計画を実現されます。摂理とは神様のご計画と
  その目的に従い、世界の全てを導き、保ち、支え、治められる神様の継続的な、お働き
  です。そして、この摂理は「保持」「統治」に分類できます。前者は、神様が何の材料も
  用いず、この世を創造されました。これを、保ち支え続けておられます。後者は、神様
  は、この世界と被造物を支配され、世に起こること全てを導いておられます。そして、
  神様はお一人でご支配されているのです。そして神様のご性質である、きよさ、賢さ、
  力強さがそこにあらわされているのであります。確かにこの世では、戦乱があったり、
  飢餓があったり、環境破壊があったりしてこれさえも神様のなされる事かと疑問を持つ
  ことがあるでしょう。しかし、私達はそれさえもが私達を悔い改めに至らせる神様のみ心
  と信じるからこそ、努力し、忍耐し、希望をもって生きて行くのであります。

 

 

 

 

問10

 

問  神は人を、どのように創造されましたか。

答  神は人を、男性と女性とに、知識と義と聖においてご自身のかたちにしたがって
    創造し、被造物の支配を託されました。

解説
   聖書は、人間の創造について詳細に科学的に描くことが、その目的ではありません。むしろ、
  創造の記事によって、人間とは何かについて根本的に教えています。
  人間は先ず、神のかたちに造られた尊い存在です。人がもし単なる動物であったら、人間が
  大切な存在であるとの根拠は失われます。ある人が申しました。「人の命は地球より重い」
  聖書のみが人間の尊さを教えています。それは、人間が神のかたちに従って造られたから
  です。それは、人間が知性を持ち、動物にはない理性を持っているからです。また道徳性を
  もち、善を愛し、悪を憎む心を持っているからです。また宗教性を持ち、神に対して祈ること
  が出来ることです。このように人間は神の似姿を持っているからこそ、尊いのです。
   また神は男の助け手として女を創造されました。この事は男女は全く平等であり、その
  尊厳についても同等です。神はこの人間に、地上の全生物を管理することを命じられました。
  ところが人間に罪が入り込んだために、人間は自分の欲望のためにこれを用い、自然の
  秩序を破壊する者となってしまったのです。神はこの悪しき人間に対して、愛をもって神に
  立ち帰ることを求めておられます。
  

 

 問9

 

問  創造のみ業とは、なんですか。

答  創造のみ業とは、神が、全てのものを無から、力あるみ言葉により、六つの日にわったって、
   万事はなはだよく造られたことです。

解説

    聖書は、世界がどのようにして造られたかと科学的な視点では書かれていません。
   私たち人間の救いに必要な宗教的・倫理的な真理を伝えている神のみ言葉が書かれて
   います。その内容は、この世界は神の栄光を示し、神の力と知恵と愛によって万物が
   創造され、自然界を通して神様のご計画が示されているのです。この世界は、「無から」
   造られ、有限なものであります。私達は、永遠から永遠に至る無限なる神の国を拠り所として
   生きており、この世を拠り所として生きているのではありません。
    神は、この世界を「はなはだ良く」造られました。ですからこの世が最初から悪に染まって
   いたのではなく、アダム達が神様との約束を破ったばかりに、罪に陥る者となり、この世は
   罪と悲惨が覆うようになってしまったのです。神は、「光あれ!」と言われ、そこから六つの日
   の間に、この世の全てをお造りになりました。最後に、「創造の冠」としての人間を土の塵から
   おつくりになったのです。そして、この被造物が常に、神を崇め、讃美する者とされました。
   この世は、神の気まぐれや、偶然によって造られたのではありません。神様の、緻密な
   ご計画によって造られ、神の知恵と愛がいたる所に顕わされており、私達はその神様に、
   支えられ、導かれ、励まされて生きているのであります。

 

 

問8

 

問  神はその聖定を、どのように実行されますか。
答  神が、聖定を実行されるのは、創造と摂理の御業においてです。

解説 
   神は、世界と人についての御計画(聖定)を創造と摂理によって実行されます。創造とは、
  無から天地万物を造り出す神の御業であり、摂理とは造り出された天地万物を支え、
  導かれ、保たれる神の御業です。そして神は、世界に起こるあらゆる事を計画され、
  それをお一人で実行されて行くのであります。
   人間の場合には、計画する者、実行する者がその役割を分担しますが、神は人間社会
  あるいはその歴史についても計画され、実行されるのです。つまり、信仰的にこれらの
  出来事を見ると、神の御手の中で私達は生活しているのであります。喜びも、悲しみも、
  憂いも、試練もこの神の愛のご計画の中にあるのです。人生のあらゆる局面で、この神の
  御業を信じ、試練の時にも忍耐して神の支えを信じるのであります。
   神のご計画の中心は、イエスキリストの十字架における救いでありました。神は人間の
  罪をイエスキリストによって救おうとされ、私達に永遠の命を与えるために万物を創造され
  たのです。このイエスキリストによる救いを、私達が心から喜び、讃美する事ができるように
  なった時に神は私達を信仰へと招いて下さるのです。

 

 

 

問7

 

問  神の聖定とは、何ですか。

答  神の聖定とは、神の御意思の熟慮による永遠の決意です。これによって神は、
   御自身の栄光のために、すべての出来事をあらかじめ定めておられるのです。

解説
  聖定とは、神の永遠の計画のことです。神は被造世界に起きるところの一切を定めて
  おられます。私たちが信じる神にとって予想外の事はなく、定められた通りに全ての事が
  運ばれて行きます。とは言え神は人間の自由を守り、人間の心の中に働く仕方でその
  計画を進められ、決して人間をロボットのような扱い方をなさいません。そして、人間の
  自由意志を尊重されました。そのため多くの者は、罪を選択してしまったのです。それで
  神はその悲惨さから人間を救うために、イエスキリストを地上に送られました。こうして、
  隠されていた神の計画が明らかにされたのです。私達はこの神の愛により救われ無上の
  喜びと慰めの中で生きております。また神は私たちが忍耐をもってこの地上で生きる強さを
  与えるために、時には試練や悲しみ下さる時があります。それも神のご計画の一環として
  とらえる時に、私達は信仰への確信を強め、忍耐をもって生きていく事が出来るのであります。
  もし私達の人生が、単なる偶然や運命の悪戯で起きるとしたら、私達が苦労する事は空しいこと
  であり、試練や悲しみは単なる恐れにしかなりません。神が一切を見ていて下さるからこそ、
  天の御国に向かって歩いていく事ができるのであります。

 

 

問6

 

問  その神には、いくつの位格がありますか。
 

答  神には三つの位格があります。御父と、御子と、御霊です。この三位は、実体が
   同じで力と栄光において等しい、ひとりの神です。


解説   神には三つの位格(人格)があります。
     父なる神は、世界を造り、これを保ち、治める方として働かれます。
     子なる神は、救い主イエスキリストであり、十字架に架かられて私達の罪を赦して
     下さいました。
     聖霊なる神様は、人の心に信仰を起こして下さり、イエスキリストと私達とを結び
     付けて下さいます。そしてイエスキリストは神様との間に立って下さり、神様と和解
     させて下さいます。
      そして、この三つの神様の間には優劣が無く、力と栄光において等しい神様です。
     神様は、私達の知恵や知識では測り知る事の出来ないお方であり、この深遠な
     奥義は中々人間には納得・理解できるものではありませんが、聖書ではこの事を
     明白に教えており、人間の考察で悟るものでなく、神自ら啓示して下さっているので
     あります。私達がこの三位一体なる神様を信仰する事により、何故イエスキリストが
     この世に来られたか、また聖霊の惠を受け入れる事で何時も神様が私たちと共に
     いて下さるかが理解でき、御言葉の説教と祈りと礼典を通して、私達の信仰が
     三位一体の神様に対して向けられている事が確信できるのです。

 

 

   問5

 

問  ひとりより多くの神々がいますか。
答  ただひとりしかおられません。生きた、まことの神です。
 
解説
  世界の宗教の多くは多神教です。唯一の神を信じるユダヤ教、キリスト教、イスラム教
 は旧約聖書を正典としています。神は唯一であるとは、神様がご自身を啓示されている
 からに他なりません。真の神は、全能であり、宇宙と世界の統一と秩序を保たれて
 おられるのです。多神教からは、混乱した世界観しか生まれてこないでしょう。そして、
 多神教では人間の生き方に多くの神々が関わり、平安と統一を欠いたものになってしまい、
 人生の上で多くの誤りを犯す事になってしまうでしょう。
  世界が只一人の神によって統治されていると信じることにおいて、私達は平安と安心の中で、
 過ごす事ができます。人生の上で、もし神々の気まぐれやいたずらで、不幸になったり幸せに
 なったりするのでは困ります。無限の愛と知恵等を持って居られる神によって守られている事
 を確信する事で平安な生活を送ることができるのです。幸せと感じる時には神に感謝し、逆境
 にある時には、神を信頼し忍耐をもち、希望と慰めをもって良き日を待ち望めばよいのです。
  神がお一人であるとの信仰は、統一ある人生をもたらして下さいます。
 「あなたは多くの事に思い悩み、心を乱している。しかし、必要な事はただひとつだけである」 
 ルカによる福音書10:42
 あなたは、細切れの人生を送って来られなかったでしょうか。一人の神を信じる事は、人生
 全ての場面で、統一ある生き方ができる事であります。あなたにとって必要な事はただひとつだけ  である

 

 

 問4 

 

問   神とは、どんなかたですか。 
答   神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実に
     おいて、無限、永遠、不変のかたです。

解説
神は唯一の霊であります。そして神は、物質と異なり時間や空間に

縛られません。そして人格を持っておられ、理性、意志、感情をも
持っておられます。そして神は、私達を愛し、憐れみ、育んで下さい
ます。そして神は、その素晴らしさの程度において限りなく、永遠の昔

から永遠の未来に渡って全てを保たれ統治されて居られます。
そしてその偉大さは、一時も変化無く保たれておられます。
神は知れば知るほど、素晴らしいかたです。存在、知恵、力、聖、義、

善、真実において、無限・永遠・不変のおかたです。人間が知り尽くす
ことの出来ないおかたであり、偉大で、慈愛に富んだかたです。私達は

己の知識や、知性で捉え難いこのお方を心から信じています。

 

 

 問3

 

問 聖書は、おもに何を教えていますか。
答  聖書がおもに教えている事は、人が神について何を信じなければならないか、
   また神は人にどんな義務を求めておられるか、ということです。
 
解説
 聖書は神の言葉、神の語りかけの書です。そして二つの事を主に教えております。
 神について何を信じるべきか
 神が人に求める義務は何か(人の生活は如何にあるべきか)  であります。
そしてについては、問4から問38で教えられています。
    については問39から問107に教えられています。
聖書は神の霊の導きの下に書かれており、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導くものであり、
信仰と生活の唯一の規準であります。ですから信仰と生活いがいの規準とするのは誤りです。
そして、聖書を読む時には、単なる情報源とか、格言集として読むのではなく、神様が私達に
語りかけて居られる事を素直に聞こうとする態度が大変たいせつであります。

 

 

問2

 

問 神は、私たちに神の栄光をあらわし神を喜ぶ道を教えるため、どんな基準を授けていて下さいま   すか。
答  旧新約聖書にある神の言葉だけが、私たちに神の栄光をあらわし神を喜ぶ道を教える、ただ一    つの基準です。

解説
 人の主な目的は、「神の栄光をあらわし、神を喜ぶこと」を達成する唯一の基準は聖書です。すなわち、聖書は人生を導く唯一の基準です。その理由は、聖書は神の霊の導きの下に書かれているからです。そして「神の栄光をあらわし、神を喜ぶ」道は、神の言葉によって教えられるのです。
 「聖書は人生を導く唯一の基準です」と言う事はプロテスタント教会が16世紀の宗教改革時に強調した点で、「聖書と教会」「聖書と理性」が基準でなく、「聖書のみ」「信仰のみ」が基準であります。もし教会の教えが聖書から逸脱すれば、それは人の教えに過ぎず権威はありません。また理性による説明も聖書から逸脱したり、聖書を越えて進む事は出来ません。理性は、聖書を理解する道具であって、聖書の上にはありません。
 聖書が神の言葉であると分かるのは、その内容の一貫性、明白性、明瞭性にあり、心を尽くし、思いを尽くして、聖書を読む時にその内容の素晴らしさが理解でき、神のみ言葉である事が確信できます。そして聖書が、神の言葉である事の納得と確信は、神の御霊が私達の頑な心を開いて下さり、理解できるようにして下さるからであります。

 

 

問1

 

問 人の主な目的は何ですか。
答  人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。

解説

 私達の人生の上で、単に財産や、職業や、地位や、名誉を求める事が目的であったら、それが終わった時は用無しの人生となってしまいます。人間として生きる限り、どんな時にも変わる事の無い目的を知る事が必要であります。
主な目的の二つの要素は、
 使命(目標): 目標の無い人生は、どんなに楽しみがたくさんあっても、空しい人生です。生きている限り持つ事の出来る目標を見出す事は難しい事です。聖書は、「神の栄光をあらわす」事を私達の使命として教えています。これは私達が生きる限り持つ事のできるものであります。
 喜び(幸福): 使命感だけの人生は、つらく苦しいものであります。慰めや喜びが私達には必要です。生きる限り続く喜びを見出す事は、なかなか難しいものです。聖書は、「神を喜ぶ」事を、私達の生きる限りの喜びとして教えています。
 「神の栄光をあらわす」とは、「神様の素晴らしさをあらわす」と言う事です。それは次の様にしてあらわします。
 私達の口を通して: 礼拝、祈祷、讃美、信仰告白、によってあらわします。
 私達の生活を通して: 私達が神様から与えられた賜物(能力、宗教心、道徳心、人を愛する心)を生かして生きる時、私達を造って下さった神様の栄光があらわれます。そして私達がイエス様の十字架上の贖いによって救われた事を信じる時に、イエスキリストの救い主としての栄光があらわれます。
「神を喜ぶ」とは、神様の素晴らしさに触れ、神を愛する事です。
 神様の御性質、人格に触れ、神を讃美し礼拝します。
 与えられる日々の惠に感謝し、神を喜びます。
 順境のときも、逆境の時も、神様を信じて喜びます。
 信仰者は、日常の様々な場面の中で与えられた仕事を大切にし、喜んでそれらを全うして行きます。そして神様の栄光をあらわし、神様を喜ぶという目的を果たします。そして、肉体的な最後の時にも喜んで、永遠の神の御国を待ち望み、死んで神様との永遠の交わりの中に入れられるのであります。その時にも、喜んで、希望と慰めを持って神様のご栄光をあらわします。

 

 

お知らせ

 

〇  7月22日 主日礼拝

説教「七つのパンと魚少々」

 マルコによる福音書8章

 1節~13節

  21-141,357,494,543

 

〇  7月29日 主日礼拝

説教「まだ悟らないのですか」

 マルコによる福音書8章

  14節~21節

  21-152,59,529,544

 

 

 

 

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日本キリスト改革派  ひたちなか教会

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